「なぜ人を殺してはいけないのか」補足

◇以下のような貴重な反応があったので補足したい。
http://d.hatena.ne.jp/washita/20050515

さしあたって、「人を殺したら自分の社会的な可能性がなくなるから」のほうがいいんじゃないでしょうか。 言葉に抑止力を持たせようとするのであれば。

簡単に人を殺すような人間に「名」が云々といったところで無意味と思います。

◇現実的にはその通りで、私が書いた「名」云々をこれから人を殺そうとする人に説教しても手遅れでしょう。この「名」の問題を言い出したのは、そもそも「簡単に人を殺すような人間」が出てくるのはなぜかを考えてのことです。自分の「社会的な可能性」を見失っている人こそ「簡単に」人を殺すのではないでしょうか?
◇「名」とは、単に与えられた「呼び名」だけではなく、「名誉」でもあり、その人の本体ということで「人格」や「魂」をも意味すると考えています。ある程度普通に育った人間には、誰の中にも自分の「名」を汚したくないという心が生じます。
◇私の推測ですが、19世紀くらいまで、社会は今よりずっと不便で不合理だったにしても、かえってそれゆえに「言葉」や「名」が今よりもずっと重いものとして、人々を縛っていた。それを「道徳」と言ってみてもいいですが。例えば、「名」は個人の名だけでなく、「家名」として個人を拘束していたわけです。
◇今は本当に身軽で動きやすい社会です。それでも相当多数の人が普通は人を殺しませんが、その根っ子にある感覚は古代以来の人間と同じものではないか。そうでなければ、人間が他の人を殺さないのは単に打算のためであって、自分が損をしない条件であればいくらでも人を殺していいことになってしまう。それは歴史上の独裁者のしてきたことでしょう。
現代日本には幸い独裁者は出てきませんが、日々のニュースには人の「名誉」をあまりにも軽く踏みにじり、それに対して何の有効な謝罪もできない小悪人がたくさんいる。それへの苛立ちを説明するには、この「名」の議論も役に立つかと考えています。