私たちの時代の「宗教」的基盤 (石原慎太郎「儒教的」論考と絡めて)

◇石原氏周辺を継続的に取材されている上杉隆氏によれば、結局何らかの「秘策」を用いて浜渦武生氏が今後の都政で実権を持ち続けるだろうとの見方*1。また、知事自身は、都政へのモチベーションは著しく低下しているらしい。
◇なお、3日の毎日朝刊「記者の目」*2(社会部・高木諭記者)もこの件について、1期目の大手銀行への外形標準課税やディーゼル車排ガス規制を高く評価しつつ、「知事本人が都政への関心を失っている印象もある」として、今が「潮時」ではないか、と迫っている。
◇さて、ここからが本題である。都庁に出向かずに執筆に取り組んでいたはずの、月刊総合誌文藝春秋』5月号の論考「仮想と虚妄の時代」を(今頃)読んでみた。編集部がつけただろう見出しでは「現代若者論」的になっているが、どちらかというと現代文明論ないし「反現代文明論」になっていた。かなり長くずらずら書いているので、私には要約できないが、その一節(p282)。

世界とか国家とかを舞台にした大げさな主題としてでなく、まずごく身の回りのアクチュアルな問題から目を据えなおし考え直していくべきかも知れない。我々は、世界や国家はこの手でじかに救えなくとも、まず我々自身をならばある意思を持ち直すことで救えるはずだ。

他にも、動物行動学のローレンツ脳幹論を引いてきて、「人間を人間として支えるトレランス(こらえ性)」の必要性(若者に、家庭に、国家に)を唱えていたりする(p287)。また、ネット媒介の集団自殺に触れて死生観の危機を語り(p284)*3、結局は冒頭近く(p266、270)に触れられている垂直・鉛直な「絶対的価値」の存在への宗教的信念に、最終的解決を求めている(そういえば、この人の法華経本は読んでない。ただ、この辺りはカントに言及したり、近年の宮台真司と語り口まで似てきているような気さえする。むろん、個々の政策判断の結果は正反対かもしれないが)。
◇都政の頂点に立った人が、結局このような感慨を持つことは、私には非常に興味深い。この文芸的な素質を持ち合わせた指導者が、社会を動かしてみた時に最終的に問題となったのは、単に政策的、システム的な部分でなく、個人の内面の領域への関心であり、それを解決するためには、その個人を育む家庭に鍵がある。この部分が、この論考の主要なテーマではないか。「東京から日本を変える」と息巻いた都知事は、やはり「心の革命」の領域に問題を残しているらしい。最終的に求めるところは、「道徳的な社会」であり、「道徳的な国家」である。この言い方、私に言わせると完全に「儒教」の思考パターンに則っている*4
◇私自身はまだ、ブログなどで展開されている、私なんぞより非常に高度で、アカデミックな議論をある程度追いかけようという気が(いささか負け惜しみ的に)あるのだが(はてなアンテナ - ピョートル4世<孫の手>アンテナ参照)、現代社会を生きる一般人にはとてもそんな余裕はない。彼ら(特に今子どもを育てている現役親世代)の多くは、ある程度高等(単に長期間?)な学校教育を受けながら、その結果身につけた?ものは、自分が自分らしく、幸せに生活していく上で全く役に立たないことを自覚している。それより下の世代は、そういう年上の人間を見ているから、およそ「学問」というものに不信感を持っている(私立に入るため中学受験をした生徒ほど、早くそれを実感する。満足な養育・教育を受けていない場合はなおさら)。そして、「自分」を支える価値観を見失い、何らかのかたちで自分や他人を傷つけてみたりする*5。そのように、一向に不安を解消できない個人にリアルな説得力を持ち始めたのが、例えば細木数子*6かもしれない。一方、そういう時代に対して、自分の才覚で、正面から敢然と立ち向かおうとしているのが、例えばホリエモンかもしれない。ただし、こういう人はやはり少ない。
◇近年の世界経済の趨勢、それを受けての、当初の看板と中身が相当違う小泉「構造改革」が推進された結果、日本社会一般の民度を挙げ、もう一つの政治勢力を育て、よりよい社会を実現しようなんていう楽観論は、もはや潰えたといってよいのでは? では、一般人には何ができるか? およそ経済の厳しい時代には、「庶民」はしたたかさを発揮して生きるしかない。石原氏が示したように、まずしたたかさを身につけ(取り戻し)、なおかつ独善・エゴイズムに陥らず、家庭を維持・運営し、それを基盤にして国家的問題への通路を開く。この道筋の示し方は「儒教」(特に新儒学)というしかない思考のパターンである。
◇日本社会は、こういうパターンに適宜、個人の実力主義を混ぜ合わせて、社会・国家を運営するのが大勢ではなかったか、と私は考えている。完全な意味での、個人主義や合理主義は少なくとも近世以来現代に至るまでの日本で行われたことはないだろう。こうした日本「儒教」(=儒教・仏教・神道の三教一致的な世界観)が完成されたのは、実は近代になってからである。
◇いくつか例を挙げる。当事者の主観はともかく、近代日本の哲学研究者たちが、なぜあれほどにカントやヘーゲルに精力的に取り組み、それが日本の哲学界の主流になったかといえば、それは「道徳的な社会」「道徳的な国家」を近代の日本にいかに確立できるか、というテーマを「儒教」(鈴木大拙などの禅仏教との関わりも深いが、ここにも「三教一致」がある)から引き継いだからにほかならない。
◇また、1945年12月15日のGHQ指令において解体が命じられた「国家神道」とは、決して明治初期の復古神道勢力が主導した廃仏毀釈・大教宣布の方向のまま発展したものではなく、すでに国内の仏教・キリスト教勢力と妥協し、習合した上で成立したものである。そして、周知のように「教育勅語」では、もはや神道ではなく儒教が正面に打ち出され、近世以来の「日本=中華(最先進の帝国)」観が強化されたのである。そうでなければ、真の意味での国民動員など出来たはずはない。総動員体制の民衆的基礎は当然、このような伝統的思考体系に基づく幸福追求の内にもあっただろう。
◇そして、戦後日本「平和主義」もその民衆的基盤は一向に変わらず、家庭の幸福追求と世界の平和祈念とが、高度経済成長の現実的展開と手を取りあって、ここに日本のカトリシズムが成立しえた。山本七平氏らがつとに「日本教*7と指摘してきたものである。
◇90年代以来の日本社会の不安といらだちは、おそらくはこうした近代日本カトリシズムの危機に由来するのではないか。この不安を、新しい死生観(宇宙旅行?)を持つことによって克服しようとするホリエモン路線が成り立つならば、それでよい。現代日本は新たな哲学と宗教を手にして「安心立命」するかもしれない。しかし、それができないならば100年前に逆戻りして、悲惨な末路を迎えることもないとはいえないだろう。私はむしろ、全く新しい哲学・宗教・死生観を一から作り上げる(端的に不可能だが)よりは、近代日本の遺産である「儒教」を、それこそ中国や韓国との交流などを通じて、「脱構築」すべきだと考える。
◇しかし、中国・韓国の政治・文化の成熟度にはやはりまだ期待できないのか、という120年前の「脱亜論」の失望を今再び味わいたくはない。中国・韓国に対して、本当にアメリカから離れ、東アジア・ブロックを形成する気があるのか迫る状況があってよい。つまらない「靖国国会」ではなく、こうした大局観を持って迫る勢力でなければ、のらりくらりの親米小泉に勝つことはできないだろう。
◇上記の歴史的問題についての私の関心は、戦後の「天皇制」研究に決定的に欠けてきた部分を補いたいという動機に基づいている。さらに言うならば、阿部謹也氏の「世間」論や鶴見俊輔氏の「顕教密教」論や加藤典洋氏の「タテマエ/ホンネ」論など*8と絡めてもう少し丁寧に論証したいところではあるが、とりあえずは(私の諸般の限界により)ここまで。

*1:http://www.uesugitakashi.com/archives/23675017.html

*2:http://www.mainichi-msn.co.jp/column/kishanome/news/20050603ddm004070022000c.html

*3:昨日のコメント欄に書いた、村上龍の死生観・人間観と通じるか。http://d.hatena.ne.jp/Pyotr1840/20050602/1117705834

*4:念のため言っておくと、私は儒教推進派(「当ブログについて」http://d.hatena.ne.jp/Pyotr1840/about参照)。また、私の儒教観の一端は、すでに「私たちの時代の『学芸』」と題して書いておいたhttp://d.hatena.ne.jp/Pyotr1840/20050523/1116832647

*5:これについては「『なぜ人を殺してはいけないのか』補足」を書いた。http://d.hatena.ne.jp/Pyotr1840/20050516/1116189428

*6:いろいろ批判はあれ、あるいはもはやバラエティー・キャラ化しているかもしれない(最近TVを見ていないので不明)が、この人が安岡正篤から東洋思想のある実践的な部分を受け継ぎ、それを日常的な家庭問題の相談を通して磨きをかけたことは疑えない。とりあえず、安岡正篤なら『活眼 活学活眼活学 (PHP文庫 ヤ 4-1)。より一般的に、中国思想への導入なら、諸橋轍次乱世に生きる中国人の知恵乱世に生きる中国人の知恵 (講談社学術文庫)を勧める。

*7:イザヤ・ベンダサン名義『日本教について』(入手困難)要旨はこちらに。http://www.try-net.or.jp/~cpc/shohyou/japanism.html

*8:阿部謹也世間とは何か「世間」とは何か (講談社現代新書)鶴見俊輔戦時期日本の精神史戦時期日本の精神史―1931‐1945年 (岩波現代文庫)加藤典洋日本の無思想日本の無思想 (平凡社新書 (003))などが代表的。