靖国、天皇、「死者を祀る」ということ、「女系」容認問題

◇今日も色々な媒体で情報を得たのだが、一番印象に残ったのは(また)毎日新聞論説委員金子秀敏氏のコラム「早い話が」(9日夕刊4面)。まず、神職の資格を持つという綿貫民輔・前衆院議長の言葉を引き「天皇は大神官」とする*1。さらに、昨年石原慎太郎氏がした「戦後60周年に天皇靖国に参拝いただければ、天皇にしか果たせない国家に対する大きな責任を果たしていただいたことになる」との発言を、ど真ん中の直球発言と評価する。
靖国は、今日発売の『週刊新潮』で福田和也氏が書くように、新しい神社である。しかし、金子氏は、明治体制とともに出来上がったその出自から、戦前は靖国の合祀祭が「すこぶる重儀」とされ、勅使が派遣されていたことを引く。そして、戦後も昭和天皇の御親拝が1975年まで7回続いたことも指摘する。ところが、1978年に神社側がA級戦犯を合祀し、それ以来、御親拝はない。
◇こうして、導きだした金子氏の結論は、A級戦犯分祀天皇御親拝復活、その代わり首相は参拝しない。「宗教問題として解決できれば、外交問題としての靖国問題はおのずと解決する」と言う。
◇もっとも、「A級戦犯分祀」は宗教問題ではないのだから、福田和也同様、私はそこ(中国や韓国の現政権に気兼ねして参拝を取りやめるというのは愚策)を譲る気もないが、天皇と首相の役割分担論としては、現段階で妥当な考えではないか。政治家参拝にまつわる、くだらない(完全に意味不明の)「公人・私人」論争など忘れて、天皇家が家の宗教として戦没者を祭ることを復活すればよい。天皇が世俗権力者でなく、ローマ教皇ダライ・ラマと同様に宗教的存在であることを、現代日本社会の中にきちんと位置づけることは可能であるし、これ以上曖昧な現状を続けることはむしろ害悪ではないか。
◇私事になるが、今日は、昔お世話になった先生の訃報を聞いた。もう何年前になるか、私の書いたものを面白いといって手書きの原稿の写しを欲しいと仰ってくださり、また、私がそれをまとめなおして発表しないのを心配してくださった先生だった。私は、こんなところでたびたび「祭祀論」がどうのと書いているが、実際人が亡くなれば、宗教者でも何でもないわけで、別に私に何ができるわけではない。普通に通夜か葬式にお付き合いで顔を出せばいいものを、自分が憂鬱になって浮世の義理を欠いたことすらある(それをしてしまうと今度は私が死人扱いで、誰からも連絡が来なくなるわけだ)。
◇結局、どんなに世話になっていても、他人の葬儀は他人の葬儀で、喪主や親族以外は、例えばここでいう「先生」のような名称から浮かび上がる、私にとってのその人の存在の意味(きちんと論文をまとめておけばよかった、など)が確認されるだけだし、それでいい*2。死者と本当に切り離しがたいつながりを感じるのは、せいぜい親子関係ぐらいなのだろうと、儒教の祭祀論を参照して思う。
◇話は飛ぶようだが、「靖国神社」にまつわる議論に参加したり、面白がって読んでいるような人間の中に、第2次世界大戦における被害者・戦没者の「死」を、言葉以上の意味で受け取っている人間がそういるとは思えない。当の小泉首相の「信念・信条」も、何ほどのものかはあるにしても、どれほどのものかは疑わしい。少なくとも、中国・韓国とのやりとりを見る限り、宮台真司氏が『サイゾー』6月号のM2対談冒頭で指摘していたように、日本と中国・韓国の現政権間のパワーゲームが公然たる暗闘として行われ、日本と中国・韓国の各国民は自国政府から都合のよい情報を流されて、いいように誘導されている、というお粗末な「ナショナリズム」の4項図式が浮かんでくる。そんな程度の国民感情は、サッカーのピッチ上で倒れついでに相手を蹴るぐらいのところで発散すべきものであって、厳粛な死者への態度ではない。
◇私たちは、他の人間に対して、どれだけ厳粛に向き合うことができるのだろうか。そこをはっきりしなければ「慰霊」なる行為は成されないのではないか。その意味では、政治家の参拝はそもそも不純な動機が丸見えで論ずるにも足りない。そうした役割に、現在の日本で最もふさわしい存在は、明らかに天皇皇后両陛下ではないか*3
◇そして、さらに言えば、皇室典範に関する議論で、実にあっさりと「女系」天皇が認められそうな気配がある。これは、現日本国民の集合的な無意識によって「易姓革命」(王の血筋が変わること)が行われるということだろうか。これこそ「不敬」と言うほかはないが、20世紀日本への無意識の復讐(国体の変更)と言うべきか。
◇なお、当ブログの最初の記事は、八木秀次氏の「男系」擁護論の根拠が科学的にはいかにトンデモであるかを齋藤環氏が指摘した文章を紹介したものだった*4。しかし、私は「伝統」を戦略として使う立場から、むしろ結論的には「男系」維持を望ましいと考える。だいいち、「女性」天皇即位から「女系」天皇が始まるとして、誰が天皇家の婿としてつりあうのか。民間人の婿入りがあるのだろうか? 結局その段階でまた旧宮家の男子に注目が集まるということにはならないのだろうか? 学識者たちの先を見通した議論というのが、単なる系譜合わせでないことを願いたい。

*1:なお、原武史氏が昨年来強調されているように、天皇は国事行為・公務とは別に、宮中で祭祀を相当数行っている。

*2:内田樹氏の「死者」論参照。本は未だ読んでないが、こちらにも。Archives - 内田樹の研究室Archives - 内田樹の研究室

*3:(補足)なお、誤解のないように少し補足しておくと、私自身は、天皇や特定神社の位置づけについて、特段に独自な意見があって、それを誰かに主張したいわけではない。今回参照した金子氏の議論もそうだと思うが、明治以来の歴史の筋を通した形での靖国論議がもっとあっていいのではないか、という提案である。私の場合にはそこに、近世以来の三教一致的な儒教についての見解も背景にあるが。これについては過去記事を参照してください。「私たちの時代の「学芸」 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」、「私たちの時代の「宗教」的基盤 (石原慎太郎「儒教的」論考と絡めて) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」、「「日本思想史」という大問題 (靖国論議の混迷に寄せて) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」など。

*4:斎藤環氏、八木秀次氏を大いに笑う - ピョートル4世の<孫の手>雑評