「古き良き時代」の葬送

◇昨日、(9日に書いた)先生のご葬儀に行ってきた。通夜はともかく告別式に参列したのは久し振りだった。人の葬式のことなど決して「評」すべきでも、表に出すことでもないが、感じたことをいくつか備忘としてあえて書いておきたい(細かい事実にも触れるが、単に私的なことでなく、多くの普遍的な問題を含むと考えるので)。
◇まず、第一に感じたのは、実にしっかりした葬儀であったということ。これは、先生の家が地元のお寺と関係が深かったようで、非常に達者な住職が実に(良い意味で)手際よく式を進行していたことである。儀式としての威厳は保ちながら、決して格式ばらず、仏教独特の柔軟さをもって、会葬者に焼香の手順や葬式の意義を語りかけていた。
◇よく日本仏教は「葬式仏教」と言われ、近世以来その堕落を攻撃される。しかし、こうした葬式(=人の死に伴う無念をいかに浄化・昇華していくか)という困難な課題を、いかに家族や知人が納得できるように解決するかが、そもそも宗教の生命だろう。それがある程度うまく成されてきたからこそ、日本仏教は儒学者国学者の攻撃にさらされながらも、現在まで葬儀執行者の中心を占めてきた*1
◇また昨日の葬儀は、故人に対する遺族の心情が伝わってきた会でもあり、会葬者のほとんどが棺に花をたむけ(ここまで近づいて、私のような人間でもようやく人の死という事実を心に感じる)、かなり多数が火葬場までの同行を許された。こうした「共同性」を感じる葬式は、現在相当難しくなっているのだろう*2。単純かつ正直に言ってしまえば、私が死んでもこんなに立派な葬式は出してもらえないだろうと、うらやましくも思った(もちろん故人やご遺族にご無念があったのを承知の上で)。
◇もう一つうらやましかったのは、私の師匠筋の先生が述べた弔辞である。「個人的な心情を述べます」と断って、形式にとらわれず、真情を隠さず述べられたことである。その中で、40年(!)にも及ぶ付き合いを振り返りながら、故人の「きろっと睨む」姿や、「バカなこと言ってんじゃねえよ…」といった、私なんぞは忘れてしまっていた「癖」の細部を再現していて、故人と再び対面するかのようだった。もう一人の先に物故された先生についても言及しながら、「先生を失って、私はこれからどう生きていっていいのか分かりません。誰か一人一緒にというなら私は喜んでついていきます」と…。これは決して、嘘偽りではなかったと思う。
◇それにしても、先生方は「良き時代」を生きてこられたな、とうらやましく思うのだ。確かに、私が知っていたこの学校では、フッサールハイデガーに師事した三宅剛一(1895−1982)やすでに治安維持法違反で投獄され、戦後「思想の科学」運動などをリードした久野収(1910−99)などの息遣いを直に伝える先生方がつい最近まで教えたおられたし、私たちがその何を引き継げたかは心もとないが、その伝えられた感触に涙することもあった*3のである。これは決して単なるアカデミズムではなく、人文学の伝統を受け継いだものであった。しかし、「実利」優先の時代の趨勢の中で、もはやそれを一義的な言葉で伝えるのは非常に困難になってしまった。
◇ただ、私もソクラテスの徒の末端に連なるものとして、現在世に行われる様々な議論にいかがわしさを感じてきた。このブログが取る戦略も根本的には、この立場に拠る。世の議論のそもそもの土台を問いたい(非常に力不足でいいかげんなのだが)。例えば、今日も様々な情報が飛び交う「靖国」について、あるいは最近肯定的に扱われることの多い「萌え」について*4。さて、「世の中を憂えず」と掲げているわりに、最近自分でも説教・抹香くさい気がするが、実用的な情報も取り混ぜつつ書き続けることにしよう*5

*1:割に近い先輩に当たる、現在稀有な日本思想史の実力派の先生による、分かりやすい解説によれば「室町幕府とつながりを持たなかった曹洞宗が、地方に勢力を伸ばすために、儒教を参考に作り上げ、庶民に広めたのが、現在の仏式葬儀」なのである。なお、日本仏教史の基礎の基礎は、言うまでもない?基本的文献である、末木文美士日本仏教史−思想史としてのアプローチ−』を参照。日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

*2:葬儀の費用面の不透明さなどが問題になるが、そうした「不透明さ」が現出するのは、そもそも家族ぐるみの寺との日常的な付き合いによる「共同性」が困難になったからだろう。堕落僧が相当多数いるだろうことは自明で、例えば総合月刊誌『文藝春秋』6月(先月)号には、深田祐介氏「かくして私は仏教を捨てた」(檀家総代からカトリックへ改宗)という興味深い文章があった。しかし、一方で先の先輩は、僧へのお布施が「半返し」で戻ってきた経験があるという。僧曰く「若い人からはこんなにはもらえない。死んだ人のために、こんなに使わなくていい」と。

*3:「飛花落葉」の最終講義は何年前だったか。泣いてた人、憶えてるかな。

*4:今週の『週刊文春』だったか?(失念)、『毎日新聞』での子供向け「萌え」用語解説に疑問を呈していたが、同感。「萌え」なるものは、結局のところ「ゆがめられた性欲の不完全燃焼」ではないか。ある程度、自己の価値観がある人間が事後的にそれを評価するならともかく(それにしても無責任な情報を乱造するな、バカモノ!)、例の「監禁男」が生きた「現実」は、そうした顛倒した妄想から生まれたものではないか。←「妄想するなかれ」は仏教思想の根本ではないか! いいかげん怒るぞ。

*5:仏式葬儀の歴史は、実は私も不勉強だが、葬儀についての手軽な本としては、高橋繁行『葬祭の日本史』がある。葬祭の日本史 講談社現代新書。また、儒式葬儀については、学術的には異論もあったが刊行当時話題になった、加地伸行儒教とは何か』が基礎的なもの。

儒教とは何か (中公新書)

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