【2:『動ポモ』を初歩からもう一度?】

◇東氏の2001年の著作『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会*1は、東氏が現代思想の領域で高い評価を得た後、より一般向けに発表した著作である。新書版で、一見誰でも読みやすそうな体裁の本である。しかし、この本は、それに先立つ講演/論考である「郵便的不安たち」*2で先にネタばらしされているように、うっかり読んでだまされてはいけない本である。
◇だいたい、カバーやAmazonの詳細ページに出ている説明文やオビの売り文句が読者をミスリードしている。それに引きずられて、レヴューもそれぞれ違和感や賛意を示しつつも、この本の核心に触れているとは言いがたい。
◇また、本の体裁としてもそっけないところがある。目次の章節分けもその一つ(なお、以下『動ポモ』からの参照箇所を示す際、第1章の1を「1-1」などと表記する)。例えば、実際は相当射程の長い序論にあたる第1章(特に1-2)や、追加的な補章である第3章は、特にそう題されていない。本論である第2章は、2-1で提出した2つの問いに答えるという極めてシンプルな構成で論理的に書かれているが、一方、先行する議論の参照、オタク系文化の具体例も多く、また使われる概念相互の関係も一見するよりは込み入っていて、案外内容が見通しにくい。
◇もちろん、これらのことについて、東氏は本文中ですべて言及しているし、あまり大仰な構成でもかえって読者を減らすだけだというのも分かる。しかし、反発や誤解も織り込み済みとはいえ、やはりこの本でも(一部の理解者を除いて)この程度にしか読まれないのか、という感触が東氏に残ったかもしれない。
◇それで、この本の主題だが、仏教論書の形式に倣って、題名釈から始める。まず、副題「オタクから見た日本社会」。まず、この本は「日本社会」論という形式をとる。「オタク系文化」はその極端な一例として取り上げられるに過ぎない。この本が、オタク論でないとは言わないが、それを論ずることはむしろ中心的課題とは言いがたい(だからオタク論としては、文句の付け所が沢山あって当然であるし、そこに文句をつけてもしょうがない)。実際、(私があまり興味のない)オタク系文化の実例を全部読み飛ばしても、この本の内容は理解できる。以下の説明も、そのように書いている。
◇では、本題の「動物化するポストモダン」とは何か。「動物化」という独自の用語は、次回説明するが、当然これがこの本の主眼である。それを言う背景となる時代認識・状況認識が「ポストモダン」という語で示されている。

*1:動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

*2:この講演/論考は、論旨はとても面白く、東氏の議論を理解するために必須のもの。ただし、読んでいてやたら長々しく感じる。これは、元の講演に大幅に加筆したせいである。◆はてな上で聞くところによると(宮台真司×北田暁大著『限界の思考』の発売日 - 双風亭日乗はてな出張所)、今準備中の宮台・北田本も(特に北田氏により)大幅に加筆されているようだが、どうなるのか心配。『嗤う日本の「ナショナリズム」』なんて怪作を出してしまった北田氏には正念場の仕事ではないかと勝手に思うのだが、どうなるのだろうか? ←こんなこと書くと営業妨害? 私も買うのでご勘弁を。◆それに対して、これから扱う『自由を考える』がいいのは、本当にシンプルに「対談」になっていて、読んでいて分かるし、面白いというところ。