【5:東浩紀の日本社会論の背景】

◇ということで、ようやく東氏の『動ポモ』とリベラリズムの関係が少し分かってきた(まだ、『動ポモ』の本題には入っていない)。ここで、もう一度1998/99年の講演/論考「郵便的不安たち」(以下、引用は『郵便的不安たち#』)*1に戻って、東氏が『動ポモ』で何を狙ったのかを少し確認しておく。(なおこの論考でも、「社会・文化の断片化」とか「象徴界(=ラカン用語。「大きな物語」「言論」と同じ)の機能不全」とかの捉え方は、『動ポモ』と同様。この論考での『動ポモ』の「ネタばらし」とは、難解なデリダ解説書『存在論的、郵便的』の後に氏が何を問題にして書いていくか、というのがちゃんと予告されているということ。)
◇さて、いわゆる「現代思想」というのは要するに政治的には左翼だったわけだが、東氏は90年代末時点において、以下のように展望を語っている。まず、この混乱した、21世紀を前にした日本社会に対して、批評家・東浩紀としては、「結局、失われた象徴界の力、つまり言葉や社会の力を復活させるほかはない」(p83)。そして、その際に東氏が選び取る道を説明している。
◇まず、加藤典洋の『敗戦後論』や福田和也の一連の著作などが取る方法に対しては、以下のように一定の理解を示す。「『日本』なんて言い出すのは伝統的には、言葉が要らない共同体を夢見るロマン主義者、つまり反近代主義者に決まっていた」わけだが、近代的個人を立ち上げるために言葉(=理性=言論)が必要。そのために、彼らはあえて共同体を復興する必要がある(社会の全体性が壊れているので)と主張していると。このように、東氏は新保守論客の一種の「共同体主義」(「日本」「日本人」という共同性への回帰)に同情するが、やはりそういう共同体復興は無理だろう、という立場を取る。
◇一方で、「転向」前の宮台真司の「まったり革命」戦略(もう「大きな物語」や「言論」なんていらない、人それぞれに生きりゃいいんだ、と言論界・一般世間の危機感をあおり、どうにか立ち直らせる。←これは私の勝手なまとめ)とも、少し路線が違うという。
◇で、勝手に要約すると、東氏は現代思想をベースにしつつ(「僕は骨の髄まで現代思想のひと」hirokiazuma.com04.2.8)、文芸評論・オタク系・コンピューター系・SF系などいろんな読者のところに顔を出して、それぞれのところで「力」を持った言葉で語る、という戦略を取る(p74-80辺り)。そうしていくことで、趣味的小共同体を横に越えていきたい。それが人々の「郵便的な不安」(ディスコミュニケーションの中で情報=「手紙」がどう届くのか届かないのか分からない不安)状況に対して、同じように「郵便的」状況の中に身を置きながら言論(哲学)の力を発揮できるのではないか、というささやかな希望を述べているのである。(「郵便的」については、次回「動物化」=『動ポモ』の本論、とともに触れる)
◇私が勝手にまとめたせいかあまり説得力がないが、だいたいはこういうことを言っているはず。その背景としては次のような認識もある。日本ではアカデミズムの哲学があまりに一般社会と乖離してしまって、社会を考えるための「概念」を提出していない、そういう「哲学的日本語の貧しさを代補してきた」のが文芸批評だ(「棲み分ける批評」1999)。また、いわゆる「現代思想ポストモダニズム)」は、1960年代のラディカリズム(新左翼)を継承しているのに、70年代の大量消費社会の美学を認めているという曖昧さがある。また、日本の「ニューアカ」ブーム的「現代思想」は、80年代のバブル的ナルシシズムナショナリズムに加担したという問題がある(「ポストモダン再考−棲み分ける批評Ⅱ」2000)。
◇このような現状認識に基づいてまとめられたのが、『動物化するポストモダン』という本というわけだ。東氏の意図としては、この哲学的言論が不可能そうな時代にどれだけ哲学的に言論に取り組めるか、という痛切な問題意識があった。
◇そのため、「郵便的不安たち」に戻ると、次のような(私にとって)興味深い言及がある。「僕はいま、ポストモダンの分析と同時に、また日本的なコミュニケーションの分析も必要だと切実に感じています」(p98)。そうしないと、いつまで経っても近代/反近代、西洋/日本という2項対立から逃れられないので、「もう少し緻密に日本的思考の土壌を分析する必要がある」(p99)と。
◇あー、長かった。で、結局そこで挙げられているのは、柄谷行人本居宣長への言及と時枝誠記文法の話だけなのだが、この辺りの問題を、私としては東氏にはもう少し展開してもらいたかったわけである。そこで、前にも言ったように*2、現在「日本思想史」が壊滅状態でものの役に立たない、という問題があるのではないか。しかし、日本でリベラリズムを考え、それに従った実践をする以上は、もっと日本のことを押さえておくべきではないか。この点について、「転向」した宮台真司と最近の東氏近辺の人々との間には裂け目があり、また、浅羽氏の東氏らへの不満もそういうところにあるのではないか、という気がする。

*1:ちなみに、自明かもしれないが、北田氏の『嗤う日本の「ナショナリズム」』は、東氏のこの論考の枠組みを北田氏が選んだ素材にぺったりと貼り付けたもの。

*2:「日本思想史」という大問題 (靖国論議の混迷に寄せて) - ピョートル4世の<孫の手>雑評