【1:問題と方法の確認】

◇東氏が90年代から一貫してこだわり続けているのは、現在の私たちが置かれている時代についての状況認識である。この一点への認識の一致がないために、東氏は、前回少し触れたように笠井潔*1と決裂し、さらに、大塚英志氏と多くの理解を共有しながらも袂を分かち、大澤真幸氏に予想通りの軽い失望を味わい、宮台真司氏の「転向」に半ば絶望し、北田暁大氏の『嗤う日本の「ナショナリズム」』にややがっかりし、今度は鈴木謙介*2氏にちょっと期待している、のではないか?
◇前回書いた「僕はそんな自分を快調に受け入れるやつになりはてています」という慨嘆も、むしろ東氏のそういう孤高の状況へと向けられているだろう。そして、東氏の思想が抱える本来的矛盾点とその思想の外部との直面とに相まって、東氏の彷徨はこれからもしばらく続くだろう。…なんて、以上は私のすごく勝手で不躾な、意地の悪い推測です、念のため。
◇もちろん、今回の目的はこういう下世話な観測気球を上げることではなくて、東浩紀を「学問オタク」と言っていいかどうかの論証?篇である。それにしても、今後悔しているのは、やはり扱う対象が大き過ぎたということ。ただでさえ読むのが遅くて苦労しているのに、結局isedの議事録*3まで追っかけていくことになった。当然(私のことだから)議事録を全部読んだわけではないが、従来私が一番等閑に付してしまっていた情報技術・倫理の分野なので、関連のリンクも含めてとても勉強になった。そんなわけで、結論的にはこの一事で十分、東氏自身は「学問オタク」ではないと言えると思うが、そこのところをしつこく論じていくわけである。
◇また、『動ポモ』までの90年代の流れの議論と、00年代(9・11以後)の議論は、基本的な部分で一貫しているが、表面上の変化は大きい。そのどこに焦点を当てるかという問題がある。それと、この記事自体が、自分で書いてても長たらしくて、何でブログに書くのかという疑問はあるが、他に書いて見てもらえるところもないのでとりあえず書かせていただく。
◇確認すると、前回浅羽通明氏が東氏らに投げかけていたのは、「1:彼らのリベラリズムを受容する土壌が現在この国のどこに認められるのか」「2:彼らがリベラリズムを標榜せざるをえない必然はどこから来るのか」という、2つの疑問だった。まず私が論証したいのは、「疑問2」の方である。何しろ、これに必然性がないとすると、私が東氏を理解するのに費やした時間はすべて無駄だということになりかねない。だって、学問オタクの本を読むのに時間かけたってしょうがないじゃないか(私は単に暇つぶしのために本を読んでいるわけではない)。そのためには、東氏の議論が「人間」にとって必要な「自由」の条件に十分に触れたものであるのかどうか(=リベラリズムの議論として意味があるのかどうか)から見ていきたいのだが、また長ーくなってしまったので、今回はその論証の一歩手前までとなる(当初予定の2/5くらいか。前回の倍以上、8000字ほどありますので、そこは覚悟して読んでください)。
◇さて、随分大風呂敷を広げたが、これからまず東氏の状況認識の基礎について、このいいかげんな私が語っていく。この場合の、誠に中途半端な限界をあらかじめ明らかにしておく。何しろ、私は、氏の最近の中核的な仕事である(はずの)「情報自由論」「波状言論」、来月新書で出るという『動物化するポストモダン2』(『ファウスト』連載)をまだほとんど見ていないのである*4。ただ、曲がりなりにも、氏の発言・行動に少なくとも5年ほど気をかけてきたわけで、彼が言いたいことの基本線は一応今回分かったつもりである。話題が大きい一方で、この適当さ加減なので、何か問題があればどしどしご教示いただければありがたい。
◇以下ずらずらと、相当しつこく東氏の議論を追っかけていくが、別に東氏の本の解説をしたいわけではなく、東氏の議論が「リベラリズム」として意義があるか、という問題を考えるわけである。ただ、なにせ私も無力な一個人であり、家族に対する責任もあるし、東氏らの議論にとことん付き合うオタクになりたいわけでもないし、アカデミックな(=いくら学術的に有用でも、本当に読んでいて面白くない、ないし不愉快という点で、苦痛かつ脳に有害な)文章作法にはほとほと嫌気が差している人である。ここでは、読んで少しは面白みのある(人生の貴重な時間を浪費して損した気分にならない)記述を目指す以上、多少の乱暴をお許しいただきたい。
◇私は、東氏と同じような状況を眺めつつ、全く別の道をたどってきた。そういう意味で、現代思想とは別の、具体的に言えば、表題に掲げたように、儒教老荘思想含む)=仏教=神道の三教一致の立場から、独自に「かみくだいた」解釈を行う権利を持っている、という立場で書きたいし、あらかじめ言っておくと、どちらかといえば、東氏を扱いながらついでに私の言いたいことも言ってしまおうという下心も強いのである。

*1:そういえば、笠井氏は季刊小説誌『小説トリッパー』で、北田氏の宮台批判をネタに、東浩紀の用語法に則って20世紀を論ずるという、曲芸的な?評論を書いていたが、立ち読みで済ませてしまった。ここまで人の議論に合わせて物を書く必要があるのだろうか?

*2:すでにご覧になった方も多いと思うが、Exciteにインタヴュー記事あり→http://media.excite.co.jp/book/daily/friday/006/。これを見た限りでは、確かに鈴木氏は、東氏の「情報自由論」に近いところをすごく平易な言葉で語っているようだ。もっとも「情報自由論」も、『カーニヴァル化する社会』も私はまだ読んでませんが。◆関係ないが、雑談。最近、新書売り場に滅多に行かなくなった(新刊が多すぎて、タイトルを見るのも面倒)。宮崎哲弥氏が全部見てくれているので、それでいいやという感あり。それにしても、宮崎氏には仏教を大々的に論じて欲しい。

*3:鈴木謙介氏が、isedで論じていた内容の中に、近年読んだ中で最も明快な18〜20世紀の政治思想史あり。ポリティカル・コンパス的な内容を考えるために格好のもの。「http://ised.glocom.jp/ised/00021030#p1」→これなど、高校公民科をマスターしていればついていける議論だと思うが、逆にいえばその程度の理解もなしにネット上に書いてる連中がいかに多いかということになる。いくらネタとは言っても、少しは水準を上げないと単に有害情報の垂れ流しなのではないか。◆ところでこの鈴木氏は、年下なんだよね。ポスト団塊Jr.世代の柔軟性・行動力・情報収集力・コミュニカティヴな態度にはやられっぱなし。そういえば、はてな社長殿も同世代だった(先週出た『日経ビジネスAssocie』にインタヴューが出てました)結局いつまでもウヨウヨしてるのも30代だろうし。情けないことだが、私は鈍牛コースで行こう。

*4:これは単に、そのころ雑誌を見ておらず、いまさら図書館で追っかける時間がない。また、東氏のためにわざわざメルマガ購入手続きをするのがめんどくさい。ファウストは趣味的に買う気がないし、掲載箇所を探すのも大変? といった、私の低レベルのわがままによる。ただ、メルマガは今度買ってみても良い気はしている。