海外文学で(「反日」からテロまでの)現代を読む

◇私は、哲学畑出身で、しかもあまりに本を読むのが遅いくせに、読めない分まで沢山本を買ってしまうので、一時期文学作品は買わないように自分で自分に制限を課していた(思えばそれも大きな失敗だった)。そんな人なので、例えば『毎日新聞』金曜夕刊連載の「海外の文学」(毎週1人の作家を取り上げるミニコラム)を見ても、ほとんど知らない名前ばかりだったりする。なので、これから書くのは文学畑の人には今更のことかもしれない。しかし最近、当ブログの「時事評論」に出したような、「反日」「靖国」などの社会問題系の絡みでも、現代海外文学を読むことの効用を感じているので、少し書いて紹介してみる。
◇まず題に出した、特集「中国文学の現在」は、先日出た月刊文芸誌『すばる』8月号掲載。全部は読めていないが、一部面白そうなものから。

春樹(チュン・シュー)「アタラシイ死」

◇1983年生まれの注目株だそうで、『北京娃娃(北京ドール)−17歳少女の残酷な青春の告白』が発禁処分となり、すでにアメリカ、イギリス、ノルウェー、オランダ、イタリアで翻訳が出版されているという。ペンネームはもろ「村上春樹」だが、本人は「村上龍の方が好き」とはぐらかしている(同じく掲載のインタビュー記事で)。翻訳掲載作品は、出来は私には分からないが、農村と都市を行き来する若い女性の生活・心理描写を読むだけでも面白い。
◇ちなみに、藤井省三氏の解説記事によると、「現在、村上春樹は中国・香港・台湾・シンガポールという中国語圏で最も影響力を持つ外国作家、いや、最も読まれている作家、と言っても過言ではあるまい」とのこと。今年初めには、『Kafuka on the Shore(海辺のカフカ)』出版で、アメリカでも話題になった(『The New Yorker』掲載のジョン・アップダイクによる書評の日本語訳は、季刊超世代?文芸誌『en-taxi』09に出ていた)。私はあんまり読んでいないのにねえ…。

衛慧(ウェイ・フェイ)「たっぷり甘く」

◇私と同世代の作家も出ている。まず、1973年生まれのこの人は、上の春樹に先んじて、『上海宝貝(邦訳:上海ベイビー)』が1999年に発禁処分を受けた作家。掲載作品はあまり小説らしくない短編で、出来は何とも言いがたい。新作長編『ブッダと結婚』は、ニューヨークを舞台にした日本人男性とのラブ・ストーリーで、作家曰く「NYで素敵、と思う男性は、決まって日本人なの」(←ホントかよ?)だそうだ(そういえば、先週辺りに新聞に出た中国の世論調査では、対日感情は凄まじく悪い割に、「日本人と友だちになりたいかでは」半数以上Yesだったような気がする。楽観的に言えば、ろくでもないのは日中両政府とマスコミということになるが…)。

余傑(ユイ・チェ)『天安門の記憶を抱いて』

◇同じく、1973年生まれ。長編からの一部分の翻訳だが、歴史の重層性が感じられて読み応えがあった。郁達夫(ユイ・ターフー、いくたっぷ)*1や譚嗣同(タン・スートン、たんしどう)などの近現代中国知識人への言及、四川省から国民党軍を率いて日本軍と戦った曽祖父、それゆえに文化大革命期に家族が味わった最底辺の生活、そしてタブーである1989年6月4日天安門事件への言及など、実に興味深く読めた。
◇この1999年に始まった作品中では、作者は激しい反日感情を語る。

郁達夫のため、曽祖父のため、そして無数の惨死した同胞のため、僕は絶対に日本人を許さない、生きていようと死んでいようとあの軍国主義者どもを許さないのです。僕の文章には日本人に対する恨みが強すぎるという人もいますが、彼らはこの恨みの根源を知らないのです。

ただ、作者はEメールでインタビューに答えて、日本への見方は絶えず調整されていて、この作品時点と今では大きく異なった日本観を持つようになったという。

私は共産党の宣伝教育の文化の中で育ってきましたから、過去には、確かに偏見も抱いていました。大学入学後は周りに日本人留学生の友人もいて、特に日本を一度訪問し10以上の都市を訪ね、左右中道各派の日本人数十名にお会いした後には、私の日本観も理性感性両面でさらに修正されたのです。日本を厳しく批判する面も持っていますが、いっぽうで、日本の友人のよいところも見ているのです。

◇『すばる』は大手月刊文芸誌4誌の中では、割合女性向きのライトな誌面だが、この特集は文芸の政治的、社会的効果を発揮した良いものになっていると思う。おそらく、『新潮』1月号(創刊1200号記念特別号)の特集「文学アジア」(中国、韓国からイラン、パレスチナまで13篇。そういやまだ読んでなかった)の刺激もあったろうが、一連の「反日」「靖国」騒動の後だけにインパクトが強かった。騒動的情報の氾濫から一歩引いて考えるのに格好の材料を提供してくれる。

ハニフ・クレイシ「わが息子狂信者(MY SON THE FANATIC)」

◇次にその『新潮』からもう一つ二つ。これも、ロンドン同時爆破テロでまた妙に生々しくなってしまったが、2004年8月号に掲載の短編。作家はパキスタン系イギリス人。北イングランドパキスタン系イギリス人の、故郷から移住しタクシー運転手をしながらイギリス社会に根付こうとする父親と、しっかり教育を受けさせた父親を軽蔑しイスラム原理主義の運動にはまり込む息子とのすれ違いを描いていた。もちろんフィクションだが、下手なルポよりもイギリスの状況を体感できる。

ジュンパ・ラヒリ「地獄/天国(Hell-Heaven)」(『The New Yorker』原載)

◇『新潮』05年3月号に掲載の短編。1970年代アメリカ在住していたベンガル人少女の生活を情感豊かに描いた佳品。
◇文芸誌に載る海外文学作品も少ないので、載ったものはだいたい一定レベルに達している、というのが私の感想。政治的になり過ぎて頭が硬直しそうな人、目まぐるしい国際情勢に混乱気味の人にお勧めしたい。
◇ちなみに、大澤真幸東浩紀が『自由を考える』で語っていたような、「他者であったかもしれない私」(=立場の入れ替え可能性)は、社会学や哲学の文脈だけで語ると空想的な理想論に思えてしまうのだが、文芸にはそれを体感させる力があると思う。「反日感情を持っていたかもしれない私」「イスラム原理主義運動にはまっていたかもしれない私」「1970年代アメリカのベンガル人の娘だったかもしれない私」…。こういう感覚を持つことを、大昔の芸術論では「感情移入」と呼んでいたような気がするが、新奇な理論に押されてこういう読み方は流行らないということだろうか?

*1:1913年来日、1922年東大卒の中国の作家。1945年スマトラで、スパイ容疑で日本軍憲兵により殺害。