三浦雅士・江藤淳・小林秀雄・吉田満、そして「心学」「歴史」という問題へ

三浦雅士から(強引に)「東アジア思想史」「三教一致」「心学」へ

三浦雅士小林秀雄批判は、氏の「青春」論の文脈からする、思想史的で相当に射程の長いものであるようだ*1。前回、三浦氏の書評欄コラムを簡単に紹介(三浦雅士「小林秀雄は批評家ではない。編集者である」 - ピョートル4世の<孫の手>雑評)したが、それへの補足から話題を展開してみる。
◇氏は、特に明治20年前後(1880年代末)の作家たちの動向から、「壮士」と呼ばれた政治青年の世界がこのころに変質し、YMCA運動の影響を受けつつ、「青年」「青春」という枠組みを成立させ、それが日本に定着していくことを論じている。その議論の射程の長さは、例えば次のように書かれる(序説p19)。

恋愛も、父と子の対立も、あるいは政治と文学、社会と個人の対立も、この特異な青春という主題の、いくつかの系に過ぎない。むろん、恋も愛も昔からあっただろう。だが、青春という主題が成立して以後の恋愛はそれまでとはまったく違っている。同じように、父と子の対立も昔からあったが、青春という主題が成立して以後の世代対立は、それまでとはまるで違っているのだ。青春という主題、青年という主題の背後にはつねに、伝統と近代、土着と西欧という主題が寄り添っているのである。

◇「青春」や「青年」という言葉は、1980年代に育った私にとっては、何かカビの生えた気味の悪い感じを伴う言葉だった。氏によれば、小林秀雄は近代批評を成立させ、この「作家の青春」を描き続ける枠組みを日本に定着させた。小林は「青春」を生きて見せた最後の世代であり、1960年代にその言葉は使い果たされたと言う*2。ここで、三浦氏は西欧発の資本主義の土壌に咲いた、1880年代から1960年代の日本の「近代」の花畑を描き出したわけである。
◇と、ここまでくると社会思想史的な文脈に話が繋がってくる。『批評と言う鬱』には「近代的自我の神話」という文章も収められており、「個体としての人はいつの時代にもいるが、主体的な「個人」というのは社会的な現象であっていつの時代にもあるものではない」といった議論をしている。
◇この議論を全部読んだわけではないのだが、私の発想はすぐに「東アジア思想史」の方に飛んでいく(どうせ書かれていないだろうから)。確かに、古代中国において「心」や「命」が問題になるのは、皇帝という支配者ただ1人だった。道家・法家が融合した黄老道*3の思想では、たとえば「心術」という用語で君主の支配思想を説いていた。それが、仏教伝来により、個人の「魂」「心」の救済が初めて思想の本格的な主題となり、中世は万事宗教優位の世界が東アジアでも成立する。そして、近世にはそれが世俗化し、仏教であれ、儒教であれ、道教(日本なら神道)であれ、もはや絶対的な真理を保証せず、各人の修養によって「心」の善を発揮するしかないという、「心学」が成立するわけである。云々。はなはだ雑ではあるが、三浦氏の問題設定を東アジアと近代以前の日本に適用するとこんな思想史がありうるだろう。

編集者・小林秀雄江藤淳の占領期検閲史研究から、戦後史の一端を考える

◇さて、話は小林秀雄の方に戻る。これもたまたま図書館から借りっ放しにしていた江藤淳『落ち葉の掃き寄せ』(1981年、文藝春秋。品切れ*4)を読んでいたら、三浦氏が書いていたのと全く同じ事柄が別の文脈で取り上げられていた。よく本を読む人には自明かもしれないが、私の場合順序が逆だったので驚いたというわけ。
◇その事柄は、小林秀雄創元社顧問として雑誌『創元』を編集し、昭和21年11月に創刊号を刊行した。その「豪華この上ない」(三浦氏「この人・この3冊」)目次が、江藤氏のこの本に出ていた。

  モオツァルト         ……小林秀雄
  戰艦大和の最後(*表記ママ) ……吉田 満
  詩(四篇)          ……中原中也
  土地(小説)         ……島木健作

吉田満氏の『戰艦大和ノ最期*5は、当時連合軍占領下の日本で、CCD(民間検閲支隊)による事前検閲でdelete(削除)された。しかし、江藤氏描くところでは、当の検閲官をも感動させた(だからこそ禁止しなければならない)という、日本人の「霊」「魂」に関わる作品である。小林秀雄は、文芸批評家・吉田健一氏(時の内閣総理大臣吉田茂氏の息子)を通して工作を依頼して、何とか掲載禁止を解除しようとしたという(江藤氏は直接小林秀雄から話を聞いていたそうだ)。ミクロな動きではあるが、この雑誌が出ていたら確かに、戦中日本への立派な「追悼」となっていただろうと想像する。
◇別に、ここで細かい考証をしたいわけではない。確か先週、坪内祐三氏が『週刊文春』の文庫本紹介コラムで、『諸君!』の「麹町電網(インターネット)測候所」欄の、「2ちゃんねる上で吉田満が(よりによって)「サヨ」扱いされていた例があり、こういう人は吉田氏の文章を読むことは今後ともあるまいと当測候所としても感慨にふけらざるをえなかった云々*6」という記事に触れ、新刊の『「戦艦大和」と戦後 吉田満文集*7を紹介していた。
◇私が最初に『戰艦大和ノ最期』を手に取ったのはいつだったろうか。あるいは、さりげなくご自身の抑留体験を、内村剛介の『生き急ぐ−スターリン獄の日本人*8高杉一郎極光のかげに シベリア俘虜記*9に事寄せて教えていただいた(王船山(王夫之)を説かれつつ、ドゥルーズの自殺についても語られた)高田淳先生にご教示いただいたものか。いずれにしても「戦後50年」の1995年頃のことだろう。
◇今回は至極まとまらない文章になったが、私の中では2005年と1995年と1945年と、この2500年の思想史とが交錯している。強いて結論を捏造するならば、いわゆる「歴史問題」の射程の浅さ、あるいは、「歴史」を教科書で学ばなければならない(体験の継承を伴わない歴史などいくら書いても仕様がない、はずではないか?)ということについての「私たち」の不幸に思いを致すということになるだろうか。

*1:私は例によって不勉強であり、4年前に読書界の話題になった『青春の終焉青春の終焉は見ていない。ただし、手元にたまたま『批評という鬱批評という鬱(以前高田馬場の割合新しい古本屋・バーバー書店で買った)があったので、その中の「『青春の研究』序説」を読むことができた。

*2:とすれば、「青年」の次にくるのが、「オタク」という生き方ということになるのだろうか。1970年以降の時代相については、「【3:「ポストモダン」という時代認識】 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」に書いた。

*3:黄老道については、浅野裕一氏の大著『黄老道の成立と展開黄老道の成立と展開 (東洋学叢書)を参照。私も持っているだけで長らく読まないままだが…。

*4:私が借りてきたのは、1988年の『落ち葉の掃き寄せ・一九四六年憲法−その拘束』の合本版。「新版のためのあとがき」で、「私は、この二篇が、いつまでも本として生き続けることを願っている。それは、私の身勝手からばかりではなく、おそらく日本人のために、当分はこの二篇が必要だと信ずるからである」という、江藤氏の願いが虚しくなっているのは残念でならない。

*5:戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)

*6:一方『戦艦大和ノ最期』のAmazonはてなのレヴューは、つけた13人が全員☆5で、今の時代の雰囲気の一端を表わしていて何だか凄い。もともとそういう鬼気迫る作品ということだろう。こういう落差も情報過多の中で生まれる亀裂の一例か。

*7:「戦艦大和」と戦後 吉田満文集 (ちくま学芸文庫)

*8:生き急ぐ―スターリン獄の日本人 (講談社文芸文庫)

*9:極光のかげに―シベリア俘虜記 (岩波文庫)