私たちの時代の「無宗教」と「無思想」(「日本リベラリズムの本義」序説)

石田衣良「空は、今日も、青いか?(12)世界に100人の神様がいるなら」

◇またまた『R25』隔週連載エセーをネタにしつつ、表題の件を考える。今回の一文は、7・7ロンドン同時爆破テロと、その前後にもやむことのないイラクでの自爆テロについて。『世界がもし100人の村だったら』と同じように、世界中の小学校で「世界には100人の神様がいて、私たちが信じているのも、そのうちのひとりにすぎません」と教えられたら…、という夢を語る話。
◇その内容はともかくとして、次のような一節が、日本人の宗教理解の一類型をとてもよく示しているので、引用してみる。

ぼくは多くの日本人といっしょで、無信仰無宗教無神論の人間である。さらにいえば、宗教など無用だと考える人間だ。人は死んでしまえば、一切無になる。それでいいのだと思っている。もし天国があるとしても、自爆テロの犯人や駐留米軍の戦死者がいるような場所なら、そちらも願いさげである。

もちろん文章上の綾もあるのだが、この前の部分では「八百万の日本(和の精神)/一神教(対立・差別的)」という対比も使われている。
◇これらの文章には、「宗教」への一般的な理解と、自身が表明する「無宗教」への無理解が奇妙に同居しているのにお気づきだろうか?
◇まず「無信仰云々」「宗教無用」と言うことで、宗教が前提とする「神(絶対者)」「天国(死の世界)」に対して、それを拒否しようとする。この発想の元は「(原理主義的な)宗教対立が人々の憎悪を掻き立て、不毛なテロの応酬を招いている」という通俗的な理解の枠組みだろう。
◇一方「ぼく」の立場としての「無神論」は、フランスなどの哲学的伝統から来る理論的な無神論(啓蒙=唯物論無神論)ではないだろう。しかし、「人は死んでしまえば、一切無になる」という死生観や、「対立・差別ではなく調和を」という発想やら、そもそもこうした死者や生き残った人たちへの「祈り」にも似た文章などは、(そんなに生真面目に書かれたものではないとしても)それ自体「宗教的」としか言いようのないもののはずだ。
◇つまり、日本人の「無宗教」とは、より正確にいえば、「無−宗教」(宗教否定)ではなく、「無宗の教」(特定宗派に属さない宗教性)だろう。宮台先生も言うように、私たちもやはり実存の不安を抱え、宗教への欲望を持っている。
◇では、なぜ日本人は自分を「無宗教」と言いたがるのか?(一方で、海外で「無宗教」と言えば、「神」を否定する、それこそ過激な思想と間違われる、という話がよく言われるのに)。そこには、近世から近現代にかけての、相当やっかいな思想史的問題が横たわっている。
◇今般の「靖国参拝」問題でも、このもつれた思想的背景に対する無理解によって、日本人自身が混乱して右往左往してしまっている*1
◇この少なくとも500年に渡る思想史の一端を、ごく単純化して示す。万事宗教(神仏)中心の中世から、戦国期〜江戸期(近世)に(東アジア全域の思想動向である「三教一致」「心学」の影響*2も受けながら)日本人の思想は世俗化した(例えば、天下人の宗教戦争儒教流行)。しかし、そこでも日本人の宗教性は続き、死者への祭祀は近世の儒者にとっても重要な課題だった。それが近代では、明治政府の「天皇崇拝」による国家統合の必要から、井上毅が「内面の自由を認めながら、外向きの行動を権力に従わせる」という方針を打ち立て、「神道非宗教」説が生まれた*3。さらに現代では、アメリカ占領下の検閲などによって、日本人の魂の追悼はないがしろになった*4。高度経済成長を経て、今や本当に日本の宗教的伝統のすべてが風化し、滅び去りかねない状況に立ち至ったというわけだ。
◇このように、日本の宗教は、権力によって徹底的に骨抜きにされつづけ、あくまで国家に奉仕するか、個人の私事としてのみ存続を許されてきた、という悲惨な歴史を持っている。石田衣良の文章のように、日本人も時に何らかの宗教性を持って世界に向き合うのだが、それをもはやそのような運命をたどった「宗教」に属することとは考えない。日本では「無宗教」を標榜することが、かろうじて自身の漠然とした宗教心の信仰告白になる、ということなのかもしれない*5
◇しかし、本当にそのような脆弱な基盤だけで、人間として強く生きることができるだろうか?*6また、そのような確固とした基盤なしに、様々な価値が渦巻く現代の世界で、その多様性を受け入れながら生きることができるだろうか? この疑問から、私は文化的な「保守」こそ、日本の政治的、経済的なリベラリズムの立場が成り立ちうる唯一の道だと考えている*7

*1:「日本思想史」という大問題 (靖国論議の混迷に寄せて) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」、「靖国、天皇、「死者を祀る」ということ、「女系」容認問題 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」参照。

*2:「アジア思想史」という大々問題 (基本文献紹介つき) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」参照。

*3:近代日本の「無宗教」成立については、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)を参照。ただし、近世儒教については、この人の見方は一面的で、東アジア的な背景を考慮に入れていない。なお、この書が元になって、日本人の「公私」の問題を論じた、加藤典洋氏の『日本の無思想日本の無思想 (平凡社新書 (003))が書かれた。

*4:三浦雅士・江藤淳・小林秀雄・吉田満、そして「心学」「歴史」という問題へ - ピョートル4世の<孫の手>雑評」参照。

*5:【9/30補足】こちらのエントリとそれに対する多数のコメントで、いろいろな(多くは良心的な)宗教観が表明されている。元のエントリの問題とは少しずれるかもしれないが、興味深いのでリンクさせていただく。「子供を亡くした母親達と不快なエセ宗教家達についての一考察 - 木走日記」。私の方では、こんなのも書きましたが。「私たちの時代の「信心」問答 (含む「子育て論」) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」。とにかく日本社会の宗教史研究のアカデミックな水準が低すぎるのは残念な限り。

*6:私たちの時代の「宗教」的基盤 (石原慎太郎「儒教的」論考と絡めて) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」参照。

*7:これは、こちらの連載?で考えている問題意識につながるもの。「東浩紀・北田暁大は「学問オタク」か? (その1) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」「東浩紀・北田暁大は「学問オタク」か? (その2) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」。また、「2005-07-08 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」でもその一端に触れた。