私たちの時代の「信心」問答 (含む「子育て論」)

◇このブログで問題にした*1「宗教性」についての記事を一つ(また、予告と違うものから書く、移り気な私。困るね)。最近、飲み会で(知人Xさん)「哲学や心理学も知っておいた方がいいと思ったんですけどね〜」(私P)「あれは下手にやると絶対落とし穴にはまるから」なんて会話を交わしたのだが、今度は知人Yさんと、「私の神様」についてメールのやりとりをするという珍しいことがあった。日本社会での信心(宗教性)を考える手がかりにと思い、当人の許可を(一応)得て、ほぼそのままの内容を問答体の形式に直して採録する。

「自分の中の神様」

Y:私は自分の中の神様は信じているけれど、神社は嫌いで初詣も行かない人なんだけど。
P:Yさんの「自分の中の神様」はどんな神様? 私もそういうのはあるから、教えて。
Y:うまく説明できないけど。
 子どもの頃は「どうやって私は生まれてきたんだろう?」から始まって、「地球って?」「宇宙って?」と夜になると考えてた。中学生くらいで、「自分は何のために生まれてきたんだろうと」思いつづけて大人になった。…それで、科学だけで説明できない、宇宙や生命を生みだす大元の存在があると信じるようになっただけ。だから、私の神様も誰の神様も同じ存在だと思ってるし、唯一神とも言えるし、全てが神だとも思う。そして、本気で祈ればいつも必ず答えをくれて優しいんだ。
P:ありがとう。とてもよく分かった。たぶん、最近少し読んだ葉室頼昭*2さんの神様とも近いかもしれない。
 私の場合は、原点はうまく言えないけど、中学生の頃は体が弱くて早死にすると思ってて、死ぬのが怖かった。高校生になってようやく生きていける気がして、「自分を生かしてくれるもの」に関心を持った。それは宇宙であり自然であり、ただの物も生物も社会も人間もすべてが含まれる。それを「世界」と名付けて、「私」との関係なんて考えてたら、哲学科行きになったわけ。それで、私は「世界」の中で生かされているし、「世界」は私の心に捉えられてその美しさを表現する、と考えていた。大学時代の前半は、自分はそういう美しさを言葉にしていく詩人だというつもりでいたぐらい。
 一方で、子どもの頃は爺ちゃんを頂点にした一族の集まりがあって好きだったんだけど、1980年代になると親類付き合いがとても薄くなった。それで何だかご先祖様に申し訳ないような(あるいは時代に置いていかれたような)意識があって、それこそ「封建的」か、細木数子的かもしれないけど、私の場合はそれが結婚し子育てする気持ちにも影響している。子どもの顔を見ると常に父母や祖父母(時には話に聞いた曾祖父母や他の親類)のことを思い出すんだ(単純に顔や癖が似てるからというのが大きいけど)。
 こういう私の神様みたいなものに仮に名前を付ければ、江戸時代の石門心学者のいう「天」に近いと思う(あとはこれまでのブログ記事と一緒だ)。
 でも私はYさんに比べると信心が足りないと思う。「安心立命」にほど遠いからね。

「信心」と社会活動

Y:先祖や血族というものに対する接し方は、私はまだいまひとつしっくりこないところがある。そして、「信仰」ということについても。
 私は神様を信仰してるんじゃなくて、そういう存在に抱かれてる事にすごく感謝してるだけ。逆に、自分が素直じゃなくなると、抱かれている事を忘れてしまって、人生を辛く感じるようになるよね。だから、その中で自分が選んだ人生を最大限に頑張りたいと思ってる。頑張ってると絶対に神様は助けてくれるんだよ。私が多分できるのは、接客販売の経験を活かした仕事で、人の気持ちを癒すこと。
 あと、命あるものが悲しい思いや憎しみの中で生きていて欲しくないと思う。一時期、自分の子どもに愛を伝えられて、その子が大きくなってまた愛を伝えて…と続けば、それだけで自分が生まれてきた価値はあるんじゃないかと思ってたけど、悲しい境遇の子どもたちの事を知るにつけ、皆同じ子どもなんだと思ったら、そういう子どもを育てる家を作りたいと思うようになった。すると稼ぐ事も必要になったの。経営手腕はないけどね。
P:「信心」というなら、感謝の心と絶対助けてくれるという確信があれば十分で、それ以外の「信仰」なんて、怪しいだけ(教団の都合からくる要求)かもしれないね。
 血族については、父親が三男なのに先祖の歴史を調べてたりして、私も実際の付き合いというよりは憧れみたいなものがあったという感じ。
 それと、人と向き合って相手を和ませる仕事は、私にはできないから尊敬します。江戸時代の石門心学も町人が集まって、勉強会をしたり救済事業をしたりしたわけだけど、Yさんの志は立派。私は自分の家のことで精一杯かもしれない。
◇以上の私的なテキストからどのような意味を汲み取るかは、読んだ方それぞれにお任せするが、少なくとも石田衣良が無意識に表明していた「無宗(の)教」(近世以来の日本社会の宗教性)と同型の反復はすぐ見て取れる。とりあえず、今の社会で宗教性(「信心」)についてのこういう対話もあるという一例として出しておく。間違った(と私が思う)「理論」や「教義」や「運動」やその他無数の「物語」へのめり込んで「宗教性」を失う人がこれ以上増えないことを祈りつつ*3

宗教とお金(補足)

◇宗教とお金というのも切り離せないテーマ。別に怪しい教団の資金集めでなくても、宗教活動はそのまま資金集めだと言えるかもしれない。それがなければ、いかなる「宗教」も「信心」も無力な気休めでしかないから。ただ、その資金集めがいかに宗教的価値観から正当なものかが要点になる。
◇このあたりは、前回のエントリへのブクマ・コメントにあったように、網野善彦氏の著作をもっと読まないといけないだろう。中沢新一氏が都心繁華街と古代の霊性のつながりを論じて話題の『アースダイバー*4もまだ読んでない(『週刊現代』連載時には少し読んだ。中沢氏が秋葉原などについてコメントした、前号くらいのAERA記事も読んだけど)。

*1:私たちの時代の「無宗教」と「無思想」(「日本リベラリズムの本義」序説) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」参照。

*2:医者出身の春日大社宮司。まだきちんと読んでないが、易しい表現だけに、間違って読むとトンデモだが、きちんと読むとやはり深いものを感じるという、独特の語り口で「神道」を説いている凄い人。『<神道>のこころ〈神道〉のこころ(旧版)などがある。

*3:9/5補足:ちなみに、ちょうど次のような記事が出てたのね。知らんかった。amgunさんのブクマより拝借。<神仏に「すがりたい」54%…読売世論調査:国民の4人に3人が特定の宗教を信じておらず、宗教を大切だと思わない人も多数派を占めているが、「神や仏にすがりたい」と思ったことがある人は過半数に上る―。このような宗教に関する日本人の意識が、読売新聞社の全国世論調査(面接方式)で明らかになった。調査は8月6、7の両日に実施。◆「何か宗教を信じているか」と聞いたところ、「信じている」23%に対し、「信じていない」は75%。「宗教は大切であると思うか」でも、「大切」35%に対し、「そうは思わない」60%だった。◆その一方で、「神や仏にすがりたいと思ったことがある」は54%に達し、「ない」44%を上回った。宗教を「信じていない」人の中でも、「すがりたい」は47%だった。(読売新聞)9月1日23時48分更新http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050901i116.htm>教団不信が深まる一方で、悩みは深いという感じか。苦しげな日本社会に幸あらんことを。

*4:アースダイバー