【3:私たちの時代の「文化戦争」】

それでは次に、小泉「構造改革」なるものの実質は、どのように評価されるのか。この点について詳細に論じる力量は私にはないので、これもよく言えば長期的、要するに大雑把な歴史状況から説明を試みたい(周知の事柄も多いと思われるが、「孫の手」なので、初歩からの説明として書いております)。

アメリカの覇権」とグローバリズム新自由主義*1

◇まず35年ほど時を遡る。私は、最近の「1968年論」あたりはあまりカバーしていないのだが、現在の私たちの社会のベースがこのころから地続きになっている、というのは分かる*2。それを世界的に見ると、「アメリカの覇権衰退」について語らなくてはならない。ヴェトナム戦争の敗北と石油危機により、20世紀前半からのアメリカ=超大国/ドル=基軸通貨(ドル=金本位、例えば36ドル=金1オンス)体制が崩れた。
アメリカはもはや単独で覇権を維持できなくなるが、しかし強引に覇権を握りつづけようと様々な策を駆使してきた。他の先進各国同様、安価な労働力を求めて工場の海外移転を進める一方で、膨張する貿易赤字を埋め合わせるために巨額の資金流入を作り出す目的で、グローバルな規模で各国に金融自由化政策を押し付けた。国内では企業の事業収入を減税し、労賃や福祉予算を抑制し、冨を国民の5%(特に軍産複合体)に集中させ、グローバルな投資から収益を得る仕組みを作り上げた(その結果、90年代に世界各地で金融危機が頻発した)。「グローバリズム新自由主義)」の実態は、衰退する超大国アメリカの苦し紛れの生き残り策というわけだ。
◇また、国内産業の中心は製造業から情報産業へとシフトし、情報技術によって管理社会はさらに高度化した。伝統的なコミュニティーの解体が進み、人間関係を希薄にしていった。アメリカにおける心理学・精神医学の盛況はそれ自体、社会解体へのある程度真摯な彌縫策と言っていいかもしれない。
◇こうした情勢の中で、アメリカ国内での「文化戦争」は始まった。大きく言えば左翼=アメリカ・リベラルに対する右翼の逆襲である。60年代までの左翼・新左翼は、結局は揺るぎない「アメリカ覇権」の中で「誰もがハッピーな世界」を夢想したに過ぎなかった。その後も、左翼陣営は管理社会攻撃を続け「カルチュラル・スタディーズ」などの思潮を生んだ。しかし、そうした先鋭化したアカデミズムや、また道徳的に過激化した左翼運動は、次第に大衆と遊離していった。
◇それに対し、70年代以降、左翼からの転向者を含む新右翼はダイレクトメールによる選挙活動を通じて、また、キリスト教右翼はテレビ説教師を通じて、それぞれ大衆に浸透し、共和党を動かす支配権を握るようになった。こうした右翼は曲がりなりにも「アメリカの衰退」という現実への対抗策を打ち出していった。その中で特にアメリカの覇権維持のために目立った活動を展開し、ついに権力を握るようになったのが、ネオコン一派ということになる。こうして社会の基調である文化面から勢力を増大した右翼が影響力を持つレーガン以降の政権(民主党クリントン政権も含めて)はニューディール政策以来の福祉給付を削減する政策を取ってきた(その結果、アメリカで警察といった公共サービスすらまともに機能しない場合があるのは、今回のハリケーンカトリーナ」被災でも明らか)。
◇こうした状況の中で、アメリカは「避けられない衰退」を極力回避するべく、時にためらわず軍事力の行使を繰り返し、世界各地の紛争に介入し続けてきた。湾岸戦争も、9.11同時テロ以後さらに「アメリカ一国主義」を露骨に表わしたイラク戦争もこうした流れの中で行われた。それと平行して国内では、90年代に右翼陣営による中絶・同性愛・ポストモダニズム思想への攻撃などが目立つようになり、それが「文化戦争culture wars」と呼ばれるに至ったわけである。
◇この文化戦争は、経済・科学技術分野でグローバリゼーションが不可逆に進行する一方、政治・宗教・文化・国防・外交面では「国民国家」というボーダーが逆に強化されるという、21世紀の新しい事態の特徴をよく示している。ヨーロッパからの移民を中心に建国された「擬似国民国家」「人工国家」アメリカは、EUとは対照的に常に「文化」を人工的にでも統合し「国民国家」もどきを創りださなければならない、という課題を抱えている。アメリカもまた「近代の超克」という文化的、政治的、経済的な課題に直面しているわけである。

現代日本における「文化戦争」*3

◇1970年代以来の日米関係について、私なんぞに包括的に説明できるわけがないが、日本が対米追従の道を選び、国益のある部分と誇りを犠牲にして安全と安心を手に入れてきたのは間違いない。特に1980年代後半のバブル経済は、戦中の1940年体制と高度成長期以来の日本社会の激変にとどめを刺し、個人の誇りは徹底的に否定され、集団主義と無責任と享楽と退廃は頂点を極めた。
◇その文化的反動が日本の1990年代である。冷戦終結と相まって、左翼的言説の欺瞞性、戦後左翼のエリート主義・権威主義が徹底的に暴かれた。この90年代は、91年の湾岸戦争への対応での屈辱から始まり、94年までは政治改革への希望もあったわけだが、95年の阪神大震災地下鉄サリン事件、97〜98年の金融機関破綻、少年犯罪への異様な注目と不安を煽る奇怪な心理学・精神医学・社会学的言説の流行によって、極めて不安定な時代相が見られた。
◇それに対して行われた「戦後民主主義教育」や「歴史問題」へ狙いを定めた攻撃などは、一見道徳的保守主義とも取れるものだが、内実はそれと裏腹な部分がある。この間、政治・経済は着実にアメリカ的「新自由主義」に対応して行われてきた。その内実は「市場原理主義」であり、多国籍企業を国家が支える(そのために1940年体制以来の「国民保護的な規制」を撤廃する)政策が進められてきた。当然「郵政民営化」というのも、細かい部分は私には理解不可能だが、大きな観点で言えばこの流れに沿ったもの以外ではありえない。
◇こうした中で、例えば斎藤貴男氏は、日本国民が支配を受け入れたがる心理を肥大させてきていることを指摘する。「テロ」や「治安悪化」に対して、法律(=権力)や情報技術による管理で束の間の安心を得ようとするわけだが、これは新自由主義による貧富の階層分化と表裏をなすわけで、結局問題は根本的には解決されない。
◇そこで斎藤氏が指摘しているのは、「日本には宗教的規範がないからお上の権威に頼らないと生きていけない」という、当ブログで本当にそうなのかとしつこく問題にした事情*4である。もし本当に現在の日本社会に自生的な規範が無いとすると、そこにエセ道徳的保守主義(=間違った国家主義)が入り込み、「ノンエリートは分をわきまえて生きよ(自分では何も考えずエリートの保護のもとでの「幸せ」を求めなさい)」というインチキ規範が主張され、一定以上の影響力を持つことになるわけである。私は(石田梅岩などの)江戸時代の民間思想を見てきた立場から、本来日本の社会(世間)とそこに生きる庶民はそんなにヤワなものではない*5と考えているが、本当に日本社会が自力で規範を維持できないとするならば、事態は1930年代より深刻ということになる。
◇こうした状況にどのように突破口を見つけていくのかは、宮台真司氏も東浩紀氏も他の多くの論者も等しく課題とするところだが、この勢いを止めるだけの理路はまだ十分に示されているとは言いがたい。今回の選挙はおそらくそのことを確認する結果になるのではないかと推測している。だとすれば、その結果が出た後、「私たち」は何をなしうるのか。気が早いようだが、そこまで織り込んで次の一手を考えておくべきではないか。
◇念のため補足すると、私自身は真正なる道徳的保守派であると自認していることに加え、大衆同様に、言葉づらの政策内容でなく、良かれ悪しかれ上記のような世界情勢の中でしっかりした政権運営能力を持つ政党に投票したいと思うのだが、それがどの政党なのかは極めて判断しにくいと考えているところである。

*1:この節は、越智道雄ほか執筆『わからなくなった人のためのアメリカ学入門わからなくなった人のためのアメリカ学入門 (洋泉社MOOK―シリーズStartLine)金子勝反グローバリズム反グローバリズム―市場改革の戦略的思考を参照した。新聞の論調の中では、私が偏愛する『毎日新聞』1面の「05年衆院選 何が問われるか」シリーズ(委員記者による連載)が比較的世界情勢を背景にした論点を出していた。選挙関係ではないが、たまたま昨日の『読売新聞』に出ていた「米民主党の挑戦(下)」も「キリスト教右派の攻勢」を扱っていて興味深かった。

*2:【3:「ポストモダン」という時代認識】 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」参照。

*3:この節では、隔月左翼誌『インパクション』147号(05.6)特集「現代日本における文化戦争」を参照し、題名もそのまま拝借した。この特集は斎藤貴男氏・伊藤公雄氏の対談を始めとして、現代日本の文化=政治を考える上で極めて興味深いもので、今年読んだ雑誌の中で出色のものだった。書き手が東浩紀氏や北田暁大氏(あるいは小林よしのり氏)の問題提起に真摯に対応しているのも興味深い。表紙もブルー地に日の丸ハトが飛ぶ美しいもの。

*4:私たちの時代の「無宗教」と「無思想」(「日本リベラリズムの本義」序説) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」、「私たちの時代の「信心」問答 (含む「子育て論」) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」参照。

*5:Archives - 内田樹の研究室」で、内田樹先生が(カトリーナ被災で端無くも現れたような)アメリカの階層化社会・銃社会と対照して描き出している、阪神大震災時の、内面的規範が機能した日本の世間の「市民的成熟」を参照せよ。なお、これに刺激を受けて書いたのがこちら→「日本民衆の武装と自律と誇りの歴史 - ピョートル4世の<孫の手>雑評