内田樹氏・仲正昌樹氏の「正義」批判に寄せて (「言論の無自覚」の問題について)

戦後責任論」のねじれ

◇当ブログでも「歴史教科書問題」「靖国問題」について多く触れてきた。また、やはりWeb上を見ていると、やはり若い人々を中心に この「ニセ社会問題」に直面し混乱して、人生の貴重な時間を無駄にしている人もいるようである。そこで、上記お二方の議論を手がかりに、「正義」を標榜する言論の問題点について、少し書いてみる。この二方の個人的なつながりというのは聞いたことがないが、最近の立論の内容を見るに、私にはかなり近いところを論じておられるように感じるので、適宜ご両人の議論を引用させていただく。
◇最近の仲正昌樹氏は、いわゆる「サヨク」的運動には相当手厳しい。以前も少し触れたが、9/11の北田暁大氏とのトークセッションでは、「従来の左翼は絶滅してよい」とまで仰り、毎日新聞の枠記事*1では「『国家』はやがて意味を失うのか?」というテーマで「憲法愛国主義」または「憲法的価値の選択を敢えてはっきりさせない”選択”」について語り、『ダ・カーポ』連載「時事相談」では、「歴史教科書問題」は本当の社会問題ではないという、私が書こうとして書き損なったところを書いておられた。
◇「歴史教科書問題」では、私も9/20のNHKクローズアップ現代』が杉並区の採択を取り上げたの見て、Web上の情報を少し調べた。そこで、思い出したのは「圧力団体」という古典的な政治学用語だった。その古典的定義によって、大衆民主政治における圧力団体の機能の中に、それに参加することで政治的疎外感を持つ人が有効感を取り戻す「社会統合」機能がある。要するに、特定の「歴史教科書」を推進したり、排除したりしようとする運動は、それ自体が社会問題を解決する目的のための運動ではなく、運動に参加することで自己満足を得るための運動であると判断して9割9分問題ないと思われる。
◇これらはもちろん「反サヨク」的な言辞を持ち出して喜んでいるわけではなく、内田樹氏が加藤典洋氏の『敗戦後論*2を題材に詳しく論じられた(『ためらいの倫理学*3)ように、「左右イデオロギー対立(=自己の2分裂)による問題の先送り」という構造にメスを入れる必要があるということだ。一方、この『敗戦後論』を痛烈に批判した高橋哲哉氏について、内田氏は、その主張の「正しさ」を認めつつ、その「審問の語法」「正義による裁きの姿勢」に対して疑問を呈している。
◇これは、結局のところ、A.「哲学=文学的な自己反省を持つ立場」(自分の不完全性=有責性を自覚するゆえに、他者を「正義」によって裁くことに自制を持ち続ける立場)と、B.「政治性=権力獲得を優先する立場」(自分の不完全性=有責性を、外在的権威によって補完し、「正義」の地位に立とうとする立場)との違いに着目したものである。乱暴に言えば、高橋氏は「侵略国の国民でありながら、中国や韓国の被害者の立場に共感するゆえに、日本国内で戦争加担者を断罪する正義の地位に登る」という構図である。

「言論の重さ」とは何だったか

仲正昌樹氏が、10/30の『デリダの遺言』刊行記念サイン会で、ニート論の文脈で「自分の分をわきまえるということは重要です」と言い切られたのには、保守派を自認する私も少々驚いた。しかし、自分の発言が自分の社会的地位からどのような含意を持つのか、言葉の上での「正しさ」とは裏腹に、その発言の社会的意味が「分を越える」ものになっていないかの自己反省を持つのは、政治的立場の右左以前に、人間としては最低限の常識ではないか。
◇ところが、戦後の日本においては、その常識が長く通用しないような状況が続いてきた。私が、わざわざ細木数子(のTV番組での時事・社会・家庭問題へのコメント)を支持することを何度も何度も表明し、アカデミズムを批判する文章を繰り返し書いてきたのもそのためである。端的に言えば、現代日本の学校・大学(特に人文系)は、西欧中近世のカトリック教会を思わせる「権威と腐敗」の機関と成り果てていないか、ということである。授業1コマ数千円になる高額な学費を取りつつ、実際の教育・研究の成果がどれほどあり、どれほど学生に還元されているのかははなはだ怪しい。高度成長期に資産形成した総中流団塊世代の子弟を人質に高い金を巻き上げたあげく、その子弟をニートとして路頭に迷わせる手伝いをしているのが現代の大学・大学院の一面ではないだろうか。
◇こういう大学に職を持つ人間、特にいやしくも人文学を修めたような人々は、その学問本来の意義から言って、自分の社会的立場に最も敏感であることを求められる。ところが、実際には大学の教員の中でも実際に学生に伝えうる何ものか(知恵なり技術なり)を最も欠いているのがこの分野の学者たちである。特に、メディアに時事的、論評的な文章を発表するような人ほどその酷さは鼻を突いて耐えがたいほどである。自校の学生では飽き足らず、広く世の大衆を惑わそうとする意図を持つからである。こういうのを正しくデマゴーグという。
◇一般人が2ちゃんねるやらブログやらの便利な遊び道具を手にして、右だ左だと騒ぎ立てるのは、俗情しかるべきものだが、多少なりとも学知(アカデミズム)を掲げる人間がかえって人を惑わすことに加担していいものだろうか。公的な言論には最低限の倫理が必要ではないのだろうか? かつてはあまりに常識的過ぎて語られもしなかったことが、わきまえられていない。大学教授の書くブログなどを見ても、「なんて高尚な遊戯にうつつを抜かしているのか、せめて市井の一般人並みに考えてくれよ」と思わせる類のものが多い。
◇仲正氏が9/11、11/13のトークセッションで、かつての岩波・朝日系知識人の存在の「重み」について繰り返し強調されていた(現在の「分かりやすい」=ポピュリズム路線を批判して)。昔であれば、知識人として「国民的議論」に責任を負っていたような立場の人々すら、現代では非常に矮小な党派的対立を事としている。その対立を周囲から囃し立て、ますます本来の論ずべき問題から人々の意識を遠ざける格好の装置として、2ちゃんねるやブログが機能しているとしたら、これほど虚しいことはない。
◇私が高橋哲哉氏の『靖国問題』をロクに読みもせずにこきおろしたのは、以上のような見解を背景にしている(宮崎哲弥氏が今月の新書「ワースト1」に選んだのもそういう情勢ゆえと理解している)。むろん日本の大学の現況すべてがこうした惨状ばかりでないの当然だが、あえてその一面を強調して書いてみた。

「無自覚な正義」からの脱却へ向けて

◇現代の日本において、「右/左」の単純な2項対立図式に基づいて議論し活動するのは、端的に問題である。それは自分の責任によって語るのではなく、既定の「正義」の枠組みに寄りかかって思考停止した議論を行うことであるゆえに、力を入れて論ずれば論ずるほど、言論の意味をこの上なく軽くしてしまう。その結果、言論に携わる者がしばしば批判する当の小泉純一郎の「軽薄さ」「無責任」「ワン・フレーズ」に勝るとも劣らない悪影響を日本社会にもたらしていくであろう。「誰の言うことも信じられない=逆に、どんな根拠のない流言にもリアリティーを感じる」、そうした時代の幕開けに力を貸すのかもしれないとの気づきが最低限必要ではないか。
◇「靖国神社参拝」にしても、それは確かに短期的には日本の対中韓外交の停滞をもたらしているが、最低でも対インド・ASEAN・ロシアなど中国のユーラシア政策とアメリカの東アジア政策との絡み合いの中で考えるべきことである。9/30の大阪高裁の違憲判断についてもエントリを書かないままだったが、現憲法の厳しい政教分離規定からすれば問題はあるが、政教分離の程度は国民の意思次第で幅はいかようにも取りうる(裁判所の判断が分かれるのも当然)。訴える側にも政治性がある以上*4、左右どちらかの立場から得られる結論を「正義」とするような愚は避けたい。私たちが心掛けるべきは、「まず結論ありきの議論」から撤退することではないだろうか。この議論、次の北田氏・仲正氏トークセッション中止についてのエントリに続く。

*1:シリーズ「<現在>への問い」第4部「創造力の行方」②、10/17付夕刊。◆ちなみに、この夕刊文化面シリーズ、第4部に入って①竹田青嗣ポストモダン思想は終わったのか?」(10/3)、③切通理作「『オタク』はどこへ向かうのか?」(10/24)、④上野千鶴子フェミニズムはどこへ向かうのか?」(10/31)こちらに全文転載あり「フェミニズムはどこへ向かうのか?/上野千鶴子~毎日新聞(10.31夕刊)より転載 - みどりの一期一会」、⑤福田和也「『近代文学』は終わったのか?」、⑥玄田有史「これからの若者にとっての『立身出世』とは?」とメジャーな人々による、本当は1つ1つ紹介したい良質な記事が並んでいる。◆ちょうど宮台真司氏もM2本第4弾あとがきでこれらの記事の一部に言及されている。「http://www.miyadai.com/index.php?itemid=311

*2:敗戦後論文庫版はまだ?

*3:ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

*4:例えば、大阪高裁訴訟の原告に加わっていた高金素梅氏については、毎日新聞論説委員金子秀敏氏「http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/kaneko/news/20050929dde012070004000c.html」参照