北田氏・仲正氏トークセッション打ち切りへの余計な感想 (「東浩紀・北田暁大は『学問オタク』か?」特別篇)

「予想された結末」

◇「やはりこうなったか」。id:leleleさんのブログでの「仲正×北田トークセッション中止」の告知*1を見ての、私の感想である。11/13に行われた両氏の第2回トークセッション(特にその後半)は、9/11の充実した第1回とは打って変わって、(私の感じた限りでは)極めて険悪な雰囲気が漂うものであった。すでに多くの方がそれぞれの感じ方によってブログ上で記録・感想を記されているが、以下、その場にいた者の一人として私からも報告したい。
◇ただ、私はこの件について、やや独特の成り行きがあって、個人的に感慨深いものがある。id:gyodaiktさんこと北田暁大氏について、私は(『限界の思考』の基になるセッションには参加しておらず)今年から氏の『嗤う日本の「ナショナリズム」*2やいくつかの雑誌連載・記事・ブログのエントリなどを読み、Web上での他の方の意見なども参照した結果、その独特の文体への反発も相まって、氏の根本的な言論姿勢への不信感を持ち、6月前後から当ブログでその疑念をちらほらと書き付けた*3
◇その中には、ほとんど中傷に近い書き振りのものもあったのだが、さらに勢い余って、北田氏と関わりの深い(と思われる)leleleさんブログの「歴史教科書問題」へのちょっとした記事に、(大変迷惑な話であるが)激怒して実に無礼なコメントをつけ、結局反省して謝罪するというトラブルを引き起こした*4
◇その後、北田氏については9/11のトークセッションに参加して極めて有益な話が聞けたこともあり、『嗤う』なども読み直した結果、私の読み方にも相当なバイアスがかかっていたと自覚して、11/13のセッション前に、記事中の北田氏を悪罵した部分を削除(見せ消し)していた。しかし、このセッションでは私が北田氏に対して持っていた不信感が、仲正氏に対する形で、現に目の前で実に見事に演じ尽くされるという「事件」に遭遇することになったわけである。
◇こういう立場の人間が書くことなので、以下の記述は私が見聞きした現実に基づいているものの、客観的立場を取るものではなく、完全に私の主観が反映されたものとして読んでいただきたい(また、本日この一つ上のエントリにあるように、一方の仲正昌樹氏の立論には深い共感を持っており、その意味でも公平・中立ではないので)。また、私の北田氏への「不信感」は、それなりの時間は割いてはいるとはいえ素人が少々各種記事を読んだ結果として、氏の「言論の姿勢」に対して抱いたものであり、決してご本人の人格を毀損するような意図はないことも注意しておきたい。
◇また、発言を多数引用するが、私一人の不完全なメモから再現したものであり、発言者の意図を誤解している可能性も十分考えられるため、引用などはされないようお願いしたい。今回のトークセッション中止によってこれらの内容は書籍化されることはないと思う。しかし、この件に関心を持つ人も少なくない中で書くのはかえって混乱を増すことにならないかとも懸念している。読まれた方の賢明な判断に待ちたいと思う。

トークセッションの概要

はてな界隈では周知のことだが、両氏のトークセッションは、双風舎によって書籍化されてきた、宮台真司×仲正昌樹日常性・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界*5宮台真司×北田暁大限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学*6の後を受けて始まったものだった。これらの対話は、表題にも示される通り、ドイツ・ロマン派の「アイロニー」概念などを手がかりにしながら、現代を生きる私たちの思想状況を問題にしようとする一連のものであった。
◇仲正×北田両氏のセッションは三省堂神田本店にて全3回で行われる予定だった。第1回は、あの小泉自民党圧勝の総選挙当日9/11に、「反復する歴史をどう認識するのか?−伝統の創造からロマン主義へ−」と題して開催。
◇漫画『嫌韓流』から始まって、保守派による左翼論法の反復、仲正氏のかつての統一教会体験、高橋哲哉氏の「戦後責任」論への批判、靖国神社という「創られた伝統」の逆説(伝統が浅いと批判すすればするほど、関係当事者の態度はますます硬化する*7)、政治のロマン主義化の問題などが語られて非常に充実した内容だった。質疑応答では、宮台氏から発言もあり、次回以降の内容を期待させるものであった。
◇この対話の中では、仲正×北田両氏が「自分たちは左側の立場にありながら、左翼側からは右寄りだと批判される」という点で合意されており、仲正氏はその事を特に月刊文芸誌『文学界』連載「実践的思考序説」(12月号)でも取り上げていたほどである。
◇今から思うと、風向きがおかしくなった徴候は、10/30の『限界の思考』『デリダの遺言』刊行記念の宮台・仲正両氏のトーク&サイン会の時にすでに出ていた。この日のトークは軽い扱いなので特に題名は示されなかったが、三浦展氏の『下流社会*8をフリにして、フリーターやニートが増えて何が悪いのか、(教養課程廃止で余った教員を大学院に回したりして)高い幻想だけ持たせておいて、やれ若者は希望が持てないなどと問題を作り出す日本の論調はおかしい、あさましい欲望を持つ人間が減っていいじゃないか、といった内容のトークだった。
◇その途中で、まもなく発売の月刊保守誌『諸君!』に、仲正氏・小谷野敦氏・八木秀次ジェンダーフリー攻撃で有名)氏の鼎談記事が載ります、というアナウンスが確かleleleさんからあったと思う。それを聞いて私は、メンバー的に見ても、文藝春秋が話題性で集めただけで、大した話はしてないだろうと判断して、気にはとめていたものの11/13のトークセッションまで読みもしなかった。ところが、この記事が第2回トークセッション後半で北田氏によって1時間ほど中心的な話題として取り上げられたのである。

何が問題だったのか−「嗤う北田のリベラリズム

◇さて、問題の第2回トークセッションの題名は「分かりやすいことはいいことなのか メディア・政治・ロマン主義」だった。話はまず仲正氏の「生き生きとした思想」批判の書『デリダの遺言』への北田氏の疑問の投げかけから始まった。冒頭、北田氏は「前回、議論の中で興奮気味になって、生き生きとしすぎたので、今回は反省して静かに行きます」と語ったが、これも思い返せば、強烈な皮肉である。なぜなら、この第2回での北田氏の語り口こそ「生き生きとした思想」の典型だったからである。
◇北田氏は疑問として、「仲正氏は、『デリダの遺言 「生き生き」とした思想を語る死者へ*9で、高橋哲哉氏の「戦後責任論」は被害者の立場を正義とすることで理論的には全体主義と同じだ、と指摘された*10。一方、そういう風に「生き生きした思想」を批判したデリダは、1980年代に逆に積極的に政治にコミットする方向に転換したが、その点はどうか。また、仲正氏自身が竹田青嗣柄谷行人高橋哲哉を批判する時にかえって「生き生きして」いないか」と投げかけた。
◇仲正氏は、これに対して主に最後の部分に対してかなり長く(ドイツ・ロマン派のアイロニーとも絡めて)応答し、「学者として人気取りに走らず、難解でも必要な議論を粘り強く続けること」が必要だと答えていた。
◇北田氏はそれに対して同意しつつ、本当に西尾幹二高橋哲哉とを「生き生きとした思想」として等置できるのかと問う(ここで北田氏が西尾氏をバカにすると会場から笑いが起きる! 仲正氏が最初の発言で「左翼の集会で小泉・ブッシュをバカにすると笑いが起きる」のを思想の悪しき紋切り型=パターン化の例として出していたにもかかわらず!)。
◇それに対して仲正氏は、「左翼=反体制=知的」なんて思っていたら本当にバカになる、斎藤貴男も「右がこんなに増えてる以上、分かりやすくやらないと」と言うが、ポピュリズム競争をしたら、絶対右が勝つ(ナチスもそうして台頭した。全共闘で「数を増やそう」で失敗したのに、なぜ今それをさらに薄めた形でやろうとするのか)、と答えておられた。
◇その後、休憩を挟んだ後に、一気に問題が加速し、会場の雰囲気そのものも見事に二分されていく(と、少なくとも私にはそう感じられた)。再開後、北田氏は突然話題を転じ、自身のWeb上の草稿*11に触れつつ、「男らしさ」とロマン主義という話題を持ち込む。内田樹氏の『ためらいの倫理学』のフェミニズム上野千鶴子)批判なども触れて、一気にテーマをフェミニズムに転じてしまう(ちょうど私は読みかけのその本をかばんの中に入れていたのだが…)。
◇その後の1時間の内容については書く気にもならないが、とにかく北田氏が『諸君!』片手に、何であんなめちゃくちゃ言って「ジェンダーフリー」を執拗に攻撃してくる八木秀次氏と一緒の鼎談に出たのか、また何で八木・小谷野による上野氏らフェミニスト批判に乗っかって(ここでまた会場一部から笑いあり)反論しなかったのか、という問いを執拗に畳み掛け、仲正氏がそれに弁明を述べるという展開であった。北田氏にとって、やはり上野千鶴子氏、ないしフェミニズムを批判するということは基本的に受け入れられない、つまり議論の余地のないことなのだろうか?
◇仲正氏はそれに対して、高橋哲哉が言うような「バックラッシュの時期に左翼内部で論争している場合ではない」という見解に反対し、「左翼こそ内部に自由な議論、寛容の風土があり、かつてはリベラリストマルクス主義者との間でも対話が成り立っていた」と。さらに「ところが、フェミニストの議論の中では何か異論を唱えると『敵側』に分類されてしまうような雰囲気があった。」「右陣営でも話の通じる場所には出て行く。『諸君!』に出たのはそれほど強い動機はない。とにかく結論の公開性が保障されていない場所では話をしたくない。」などと答えられていた。
◇北田氏はそれに対して、小部数の『論座』『世界』に対して、影響力の大きい『諸君!』に出たのはどうなのかと問い詰める(今や保守論壇の影響力が社会全体に対してそんなにもあったのか!)。そこで、以前、北田氏がブログにも書いていた(読んで私が激怒した)言葉*12がナマで登場する。「日和見主義者の私としては、市民運動・社会運動が保守の方に行っている今の状況はあまりにバランスが悪い」と。
◇氏が使う「日和見主義者」の意味が、ここで私には初めて実感できた。「内容などどうでもいい。あるのはバランスだけだ。一方に傾いた天秤は無理にでも引き戻さなければならない」というのが、氏の「乾いたリベラリズム」の内実らしい。そのためには、非人道的な方法を使うのもためらわないのかもしれない。私には氏の峻厳な追及は、「そうだ、これが『つるしあげ』ってやつだった」と、普段使わない言葉の意味を体感的に再認識させられるものであった(=内田氏の「審問の語法」)。
◇氏の「リベラリズム」は、コンスタティヴには(=言葉面では)「陰謀論八木秀次安倍晋三ブレーン)を言うわけではない」「上野千鶴子を全面擁護するわけではない」と言いながら、パフォーマティヴには(=言動の実質的意味では)『諸君!』に登場し、よりによって八木秀次とつるんで上野千鶴子を批判した仲正氏との対話の回路を閉ざそうとすることを実に鮮やかに示して見せたのである。私の貧しい語彙ではこういうのを「慇懃無礼」と言う。
◇よりによって『不自由論−「何でも自己決定論」の限界*13などの著作であれほど(少なくとも2年間以上に渡り)「正義=不自由」に対する現代思想からの批判を繰り返して述べてきた仲正氏に対して、フェミニズムというエクリチュール(=死んだ言葉)から、鮮烈な危機感に基づいて「生き生き」と、絶対に反対できないような「正論」を得々と述べ立てる北田氏。仲正氏が最も強く批判した、まず結論ありきと言う「気の短さ」を体現してみせる北田氏。北田氏が実演して見せた「近代的な人間性」=「主体と客体、味方と敵に人間を二分するその精神」に私は圧倒され、もう少しで目の前の北田氏が肘をついている長机を正面から蹴り飛ばすところであった。私は久し振りに「胸クソ悪い」という言葉を思い出した。
◇司会をされた方はさらっと言った。「北田氏と同じ危惧感を持っています。鼎談では言葉足らずな部分があったということでしたが、○○○としても北田氏の対談相手として色がつくことになるので」。こういう発言をすっと言えるのは、私にとっては驚異というほかない。私の個人的な価値観では、これは公の場で相手を「侮辱」したことになると思うのだが。
◇仲正氏は「言論が嫌になったら、金沢大学法学部の先生でいい。中島義道ではないが<半分>降りたい気分です」と答えられた。司会の方は、最後に「もちろん『あえて』言ったことですので、○○○としては仲正氏を支持しております」と締めくくった。私の語彙ではこれを「欺瞞」という。司会と対談者の一方はこれらの内容を了解済みだったわけだ。
◇私一個人はやりきれない思いを抱いて会場を後にした。全く予想もしなかったことだった。帰り道、もう一度、東浩紀笠井潔の決裂書簡『動物化する世界の中で 全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評』を読み直す必要があるような気がしてきた。なんと無残な言葉が積み重ねられたことか。私たち読者はいつまでこうした言論につきあわなくてはならないのか。私の多少の慰めは仲正氏の本を持ってサインを求めた人が多かった事である(私も未読だったが『日本とドイツ 二つの戦後思想*14にサインを頂いた)。
◇言論界から退場するべきなのが仲正氏であるとは私にはとても思えない。『日常・共同体・アイロニー』の「まえがき」で、仲正氏はわざわざ宮台氏の対談での「紳士的な態度」に言及していたわけだが…。これは重大な「裏切り」ではないだろうか。北田氏には、浅羽通明氏が送った「学問オタク」の称号に代えて、私から「左翼・フェミニズムの最終兵器」「やはり東大助教授」「日和見の権力者」の称号を送りたいと思う。

*1:2005-11-15 - 双風亭日乗はてな出張所

*2:嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

*3:東浩紀・北田暁大は「学問オタク」か? (その1) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」など。

*4:leleleさんのコメント欄で私が犯した暴発への謝罪・反省文 - ピョートル4世の<孫の手>雑評

*5:日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

*6:限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

*7:内田樹氏の「擬制」論に重なるか。「Archives - 内田樹の研究室」、「Archives - 内田樹の研究室

*8:同時期に内田樹氏も詳しくこの本の内容を紹介されていた。「Archives - 内田樹の研究室

*9:デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

*10:仲正氏の立論が分かりやすく語られているインタヴュー記事がこちら「http://d.hatena.ne.jp/pmbl/20051116」に紹介されていた。

*11:たぶんコレのことだろう。「エラー - Yahoo!ジオシティーズ

*12:http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20050407#p2

*13:「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)この本は出た当時に買って、先輩格の知人からも「いかにも君が好きそうな本だよね」と言われていたが、以前第1、4章を読んだ時はいま一つピンとこなかった。しかし、9/11以来仲正氏が強く気になり始めた私はこの本を1週間ほどかけて行きつ戻りつしながら精読した。特に2、3章が宮台真司氏にも言及されていて興味深かった。著者自身「哲学」的で難しいと述べているが、丹念に読むと学ぶところが極めて多い名著だと思う。◆余談だが、第2章「人間性」の起源を問題にした、スローターダイクの「フマニタス=連鎖書簡」論の辺りは、東アジアの「経典への注疏」の伝統でも成り立っていたな、などと勝手な解釈をしながら読んだ。

*14:日本とドイツ 二つの戦後思想 (光文社新書)