いまや懐かしいキャラたち−小泉、細木、ホリエモン−と「倫理道徳」の話

 私は、昨年来の記事で、小泉純一郎細木数子の行動や発言をやや偽悪的に高く評価してきた。今でもその基本線は変わっていない。進歩が無いのか、ぶれないのかどっちだろうか?
 一方で、彼らが一時評価したホリエモンについては、私は積極的な評価を留保してきた。久しぶりに新聞写真で堀江貴文氏を見て思いついたままを少し書く。

小泉政権とその後へ

 まもなく終わる小泉政権について、『毎日新聞』の記名社説では「小泉時代考」と題して、連日小泉の折々の象徴的発言(例えば、「日米関係がよいほど中国、韓国、アジア諸国、世界各国との良好な関係を築ける」など)を掲げて、その結果を論説委員たちが様々に評価している。
 批判すべき点は当然色々あるわけなのだが、とにかくも「小泉時代」というものなしに今の「私たち」を考えられない現況なのは疑えない。そういえば、『毎日新聞』では「改革された私」という連載も興味深かった。
 格差論もいろいろ出ているが、特に地方格差の問題など、心が痛むところがある。それに対して、私なんぞからは解決に向けての何の知恵も湧いてこないだけに。私は(PCこそ外国メーカーに乗り換えるが)ナショナリスティックな人間なので、国土を守れないような社会のいびつさは何とかしたいという思いはある。
 松本健一氏が、9/4の『毎日』2面で、安倍晋三の「美しい国」を「実際には強い国家だ」と評する一方、「民族が軍事力や経済力ではなく、文化によって強さを持つことを考えてほしい」と注文をつけていた。「文化国家」とはあまりに古典的なようだが、あまりに露骨な政治主義(岸信介的な*1)・経済主義(池田勇人的な*2)・軍事主義ではない、文化主義という立場があるということを思い出させてくれる。

細木占いの当たり外れに寄せて

 つい最近も、「細木数子の予言が外れた、やっぱりダメだろ」的な記事を拝読したが、「占い=予言」と捉え、当たれば信じる、外れれば「ほら見たことかインチキじゃねーか」的に喜ぶのは、好一対の「占い好き」ではないかと思う。私の場合、そもそも占いに大して興味が無いので、当たろうが外れようがどうでもいい。占い師の的中率ランクを出すほどヒマじゃないよ、という感覚かもしれない。
 むしろ細木の発言から、「占い=予言」という文脈しか読み取れない貧困(リテラシーのなさ)に自覚的になる必要があるんじゃないか、とまで言ったら嫌味が過ぎるだろうか。私は、前も書いたけれど、この細木サンを人格的に全面信頼するわけではない。『週刊現代』の連載に書かれるように、「人をだまして丸儲けじゃないか」という疑いの目もあってしかるべきだろう。
 ただ、日本の現況が、細木の「道徳的な」発言に妙なリアリティーを与えている、あるいは、「私たち」がそのようにリアルに読み込んでしまうようなところにある、というところが気になっている。私たちの方が、細木数子にあんなふうに言われて、罵られて、叱られて、そうしてみると、なんだろうなと思っちゃうような薄っぺらさを抱えているのではないか。いや、そんなことはない、と断言できる人は、ぜひガンガン細木数子より活躍してください。

ホリエモンとネクタイと「大人になるということ」

 何か久しぶりに懐かしい顔を見た、というのが、今回この駄文を物する一つのきっかけだった。新聞の写真を見たら、スーツを着ていた(私は彼のシャツ姿に何の思い入れもなかったので、記事を読むまでその意味に気づかなかった)。法廷では青ネクタイをしたそうだ。新聞によると、堀江氏は以前ネクタイのことを「僕にとってはチョンマゲ」と言っていたそうだ。そんな彼が、参上してお白洲に進むときにはその「チョンマゲ」を結ったというわけだ。
 というのは、つまらない揚げ足取りではあるが、同世代として彼の薄っぺらさが良く伝わってくる話だなあと。そういう言われ方をされる辺り、彼の(そして私たちの)実に未熟なエゴを見る気がする。本当にちょっと機転が効くということでのし上がって、膨らむだけ膨らんで、自分自身でうすうす中身が無いことに気がついている、という感じではないだろうか。プスっと刺されて見事にしぼんでしまった。それは、私たち自身の脇の甘さではないだろうか。
 「仕事とは、人のニーズにどれだけ応えるかということだ」というのは、少しまっとうな「社会人」なら誰でも弁えていることだろう。「それを忘れたとき、自分の都合だけで仕事をしているようになったら、仕事のうえでの成長はない」というのは、同い年の信頼できる上司から今日言われた言葉だ。
 「人のニーズに応えればこそ、その人が得る効用の対価として利潤が正当化される」。あまりにも至極まっとうなことで、今ではそれを忘れている輩も多いようだ。これが分かっていないなら、どんなに能力があろうが、資産があろうが、結局は「人間のクズだ」という価値観はあってよいものだろう。
 「そんなのは、負け惜しみだ」というなかれ。懲りない人には、いくらでも言ってあげよう。「お前は人間のクズだ。クズだ。クズだーっ!」。思えば、私もそういう期間は長かった。つい昨日までは、クズだったと言われてもしょうがないというわけだ。自戒を込めて、私は「人間のクズ」をありのままにそう呼びたい。
 「大人になるということ」は、心理=社会学の奇矯な術語を数珠つなぎにして語ることも可能なわけだが、「倫理道徳」の観点からすれば、実にシンプルな原理原則があるだけである。引きこもりやらニートやらの議論が(好景気とともに?)終息しつつあるが、こうした議論も高級すぎて、現実の生活とはあまり関わりがなかったように思う。世の中には、もっと単純化された価値観で割り切っていいことがたくさんあるのではないだろうか。

「倫理道徳」についての補足

 なお、ここでは「倫理」と「道徳」とをあまり厳密に使い分けていない。というのも、儒教老荘的な文脈では、「倫理」も「道徳」も連続したものとして捉えられるからである。前者を形而上の超越的なものに関わる、一神教的なものに当て、後者を形而下の世俗的なものに関わる、多神教的なものに当てる、といった理解は採らない。わざわざ「倫理」と「道徳」を分けて、それを隔絶したものと見るならば、結局のところ、我々は根こそぎ改宗するしかないということになってしまう。
 エートスも、モレースも、人倫も、本来「人間世界」に関わるものとして問題になる。それが「天」や「理」や「神」とどう関わっていくのかは難しいところだが、変に「武士道」とか、「品格」だとか言わなくても、「最も平凡な事柄こそがかえって真実を顕している」というのは、「私たち」の伝統的な観念である。やっぱり私は「石門心学」(というより石田梅岩の思想)が肌に合うようだ。上の「利潤の正当化」の話も、日本では梅岩の思想が原型である。

*1:岩見隆夫岸信介−昭和の革命家岸信介―昭和の革命家 (人物文庫)など。最近ちょっと説教臭さを感じないでもない岩見氏だが、この本は岸氏健在の1977、78年の『文藝春秋』掲載記事をまとめたもの。関係者へのインタヴュー素材に基づいており、生々しい雰囲気が伝わってくる。

*2:水木楊『エコノミスト三国志−戦後経済を創った男たちエコノミスト三国志―戦後経済を創った男たち (文春文庫)など。こちらは、ノンフィクション。池田首相のブレーン・下村治氏を中心に、戦後まもなくから「所得倍増計画」、70年代の変質までの経済政策・経済論戦を描いている。経済云々といいながら物語調で、非常に手軽に読める。