「世間」と「社中」(日本に「個人」がいるかどうか、「思想」はあるかどうかについての初歩的考察)

小泉政権についてのまとめやら日本思想史への発言やらをメモしてあるが、果たして書く機会はあるだろうか。
◇ところで、ここ数日、何か借金苦の心中・身売り、いじめ自殺の報道が続いているような気がする。佐藤直樹氏の評判高い『世間の現象学』*1を今頃読んでいるのだが、「世間」というものの重苦しさを今更ながら実感する。
◇私自身は勝手に自分を脱世間的な人間だと思って年経ているが(それはそれなりに苦しかったわけだが)、同様に世間に背いた阿部謹也氏(『中央公論』11月号の「遺書、拝読」参照)の「世間」論に注目する一方で、日本の「世間」について、ヨーロッパ的「社会」(個人を前提とした)との異質性ばかりを強調するのもどうかと思っている。
◇日本の世間が、多分に呪術的で儀礼的で非合理的な要素を(現に)強く残すものだったとしても、一定の条件の下で「個人」が強く出る側面はあった(いや現にある。つまり、日本にも個人は存在する)はずである。societyが「社会」と翻訳された中に、逆に日本における「個人」「公共性」の意味を問える場面があるのではないのだろうか。
◇「世間」論のインパクトを前提とした、実証抜きの思いつきに過ぎないけれど(阿部謹也に比べれば、日本の凡百のアカデミシャンなど、蛸が壺の口の中から外を覗いて「お前ら所詮井の中の蛙さー」とうそぶくかのような滑稽な存在でしかない)。私の理解する「石門心学」(手嶋堵庵門流よりは、石田梅岩自身や鎌田柳泓など)も、そうした社中の一つと思っている。
【以下10/17追記】
◇なぜ私が心学(本心の学)に着目し続けているかというと、日本の「世間」の世間性(つまりは、呪術性や儀礼性や非合理性)に対してそれを制約し、普遍性・公共性・客観性の側に目を向けさせる機会を与えていたのが、儒教・仏教・神道などの日本の「思想」だからである。特にこれらの三教一致を立場とする心学においては、それら思想の概念が特定思想の文脈を離れて、哲学的、人間学的概念として使われるようになり、体系性は未熟だとしても、日本の手作りの思想になっていたのではないか(例えば、私が細木数子のある種の「道徳的」発言を持ち上げたのもこれと関わる)。
◇つまり、ヨーロッパでキリスト教が12世紀以来の「社会」を作り出したような変化に対して、日本でもそれと同等・同型ではないにしても、それなりの歴史的変化はあったに違いない。日本思想史学者の中では私が(勝手に)最も信頼を寄せる(私淑ですね)、佐藤弘夫氏が『学士会会報』に、日本人の葬祭観が12世紀に変化した、という短いエセーを書かれていたのを最近読んだが、仮に日本の「世間」が上記のようなものであったとしても、それは歴史的に変化し続けている。そして、下手をすると、現代は「日本社会」がひどく中世化して、「世間」の圧力が高まりつつあるという時代なのかもしれない。
◇日本社会における、明治以降の「普遍性・公共性・客観性追求の後退」を考察した一例としては、平石直昭氏の『一語の辞典 天』*2(品切れか? 良書中の良書だが)を参照。もっとも平石氏ですら、丸山真男発のドグマであるところの「石門心学通俗的=庶民に身分安住を勧める思想」だとしているのは残念なことだが。荻生徂徠を核とした古学・国学の発展と、石田梅岩門流による心学の隆盛とは、実は日本社会に起きていた大きな変化の表裏面の現象なのであろうから。
◇ようやく本題の日本思想史に近づいたわけだが、従来の日本思想史ではとかく日本人の「特殊性(純粋さ)・党派性(世間)・主観性(誠)」などを選好して描き出してきた。そういう選択の積み重ねは、「創られた伝統」の再確認であってアカデミズムの名に値しない。しかし、一方で批評理論をベースにして、これらの学の虚妄性を暴き立てるのも、認識の更新のきっかけにはなっても、それ自体の「学」としての価値はない。
佐藤弘夫氏らによる、正しい意味でのアカデミズムとしての日本思想史学による研究成果が昨年まとめられ、公刊されていた。『概説日本思想史』*3である。佐藤氏が、「あとがき」で触れるように「現実には、自国の思想に対する知識を得たいと思っても信頼できる入門書・概説書すらほとんど存在しないというのが現状」だったことを私は実感している。まだあまり読めていないが、私が多少なりともアカデミズムに関わった90年代にこの本が出ていれば…といううらやましくも画期的な本であるのは間違いないだろう。
◇そして、私が自分自身で意味を十分に分明にできないまま、それによってしか表わしがたい意味を込めて使っていた「私たち」という言葉は、「日本社会に生きる諸個人たち」への呼び掛けであったことに今更ながら気づいた次第。
◆以下、関連する過去のエントリ。同じようなことばかり書いているわけだ。
私たちの時代の「学芸」 - ピョートル4世の<孫の手>雑評
私たちの時代の「宗教」的基盤 (石原慎太郎「儒教的」論考と絡めて) - ピョートル4世の<孫の手>雑評
私たちの時代の「無宗教」と「無思想」(「日本リベラリズムの本義」序説) - ピョートル4世の<孫の手>雑評
私たちの時代の「信心」問答 (含む「子育て論」) - ピョートル4世の<孫の手>雑評
【3:私たちの時代の「文化戦争」】 - ピョートル4世の<孫の手>雑評
「日本思想史」という大問題 (靖国論議の混迷に寄せて) - ピョートル4世の<孫の手>雑評
「アジア思想史」という大々問題 (基本文献紹介つき) - ピョートル4世の<孫の手>雑評
【10/17再度追記】読み返してみたらあまりに乱文だったため、一部表記を修正しています。引用していただいたので念のため。

*1:「世間」の現象学 (青弓社ライブラリー)

*2:天 (一語の辞典)

*3:概説 日本思想史