教育についての「やらせ」問題たち

◇来客が多かった割りに特に反応のなかった「「紋切り型ニュース」の馬鹿馬鹿しさ(「履修不足」と「参院1票の格差」を事例として) - ピョートル4世の<孫の手>雑評
の続報のつもりで少し書く。といっても、今更タウンミーティングのやらせ発言を取り上げるわけではない。ああいうみっともない事態は無いに越したことはないが、これ以上つついて何が出てくるわけでもないだろう。
◇ここで言いたい「やらせ」とは、改正教育基本法とそれにまつわりつくように吹き出てきた、未履修問題・自殺予告・やらせ発言の3点セットなどの総体を指している。
◇例えば、『中央公論』1月号では、時評欄で社会学者・佐藤俊樹氏が、未履修というけれど、そもそも今のカリキュラム指定に意味が無かったのではないか、と疑義を呈し、また一連の「問題」について、「『教えるべき内容』について、誰も本気で、まじめに考えていないのだ」、「(自殺予告状やタウンミーティングのやらせについても)本気のふりをしているだけで、本気じゃないのが見え透いてくるのだ」と述べている。
◇また、同じ号の教育をめぐる特集では、教育評論家・中井浩一氏が、以下のように指摘する。結局一連の問題は「政争の道具」とされ、「教育基本法改正案の国会審議は、これら不祥事の集中審議の場と化し、文部省の担当部局はその対応で機能マヒしている」。
未履修問題については、『論座』1月号記事での苅谷剛彦氏すら、「今回、ちょうど教育基本法の国会審議が山場を迎えたまさにその時、いっせいに報道されたところに、どこか政治的なにおいを感じるんですよね」と述べている。
◇近時に、教育基本法改正をめぐっての反対運動にコミットした人々を散見したが、その信念そのものにケチをつける気はさらさら無いのだが、こうした手段を選ばない「動員の政治」ないし「反対のための反対」やら「醜い足の引っ張り合い」やら「本質を見ない空騒ぎ」といった一連の事象ほど、若い世代に間違った「教育」(「学校教育なんて、どうせ誰もまじめに取り組んでいないのだ」ということを教える「隠れたカリキュラム」)を施し、彼らを「市民的成熟」から遠ざける(「どうせ世の中は変わらない」という思いを植えつける)振る舞いは無いのではないだろうか。
宮台真司の90年代のブルセラ援助交際をめぐる議論について、そのマッチポンプを指摘する声は多い*1のだが、マッチポンプどころではない、こうした構造的反復の方がよほど大問題ではないだろうか(ちなみに、宮台氏の最近の教育近辺の論の一端はこちら「http://www.miyadai.com/index.php?itemid=438」参照。)
◇さて、その「教育」の現在について、少しまともに考えるならば、先の苅谷氏が聞き手となり、公立中学教員・教科書会社編集部長・副教材会社編集長を集めた「教科書匿名座談会 検定は役に立っていますか」が興味深い。検定での教科書調査官との実際の遣り取りから、教科書会社の経営状態、それと関連するミス・誤植多発の現状、小学国語教科書1冊326円というコストについて(教育にいかにカネをかけていないか。その一方でそのコスト見えない表面上タダのものにしてしまう無償制について)。
◇「本当に教科書を有償化して、自由競争にさらすつもりなら、検定なんてしちゃだめですよ。…検定制度・無償制・使用義務、これらは一つのまとまった議論だと思いますよ」といった発言に納得。私の年来の持論は、ここをすべて中央突破することである。
◇今日の『毎日新聞』には、改正教育基本法成立を受けた、「変わる教育の憲法(中)」(2面)、Web版は「http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20061217ddm002010052000c.html
その中では、過去の教科書問題についての、こんな記述があった。

 長く続いた政界の55年体制で、自民党と旧社会党教科書検定や国旗・国歌問題で対立した。81年、有力出版会社から自民党文教族議員への多額の政治献金が発覚。参院副議長を務めた本岡昭次参院議員(当時社会党)は参院文教委員会で「自民党が教科書の有償化を言い出すたびに50万円、100万円と献金されている」と追及した。
 だが、本岡氏は委員会の最中に社会党理事から「うちにも受け取った者がいる。ほどほどに」と耳打ちされた。本岡氏は「自民が有償を言い出して、最後は無償で決着する。『55年体制』の癒着があった」と証言する。

◇さて、私たちは、教育基本法の約50年ぶりの改正という、やはり少なくとも一つの歴史的な転換点を、ひどく皮相な、一時的な、泡沫的な議論だけでやり過ごしてしまったのではないだろうか。結局それは、現在の日本社会に生きる人のそれなりに多くが、子供を育てるとか、教育により人材を育てるとかという、根本的なことにいかに関心を抱いていないか、自分が日々を楽しく生きることに夢中になっているか、そしてそれで何とかなると思っている、という簡単な事実を立証しているように思われる。
◇そう、大したことではなかったのだ、初めから。もうここ10年以前から、教師は、過去の徒党を組んだ運動家の居直りか、精神・身体を病んで休職してしまう生真面目な人か、隠れ蓑の下にペドフィリア傾向を抱えた人間か、あるいはこんな状況の中でも本当に教師でいられる強靭な人間か、そうした人間が務める職業であったし、保護者や政治・行政や報道機関はいつでもその周りで空騒ぎを続けてきたわけである。
◇結局前回のエントリでは、「社会問題」をめぐるこうした空騒ぎ・政治利用をやめて、それに合理的に、問題解決的に取り組んだらどうか、ということを言いたかったわけである。それはさまざまな制度を試行し、改善を加えていく持続的な取り組みであるほかはない。それにしても、こうした取り組みに賛同者が多く出ないとしたら、「結局日本社会で表立って発言する人間は口舌の徒ばかりだ」という、近来の私の疑いが強化されることになるわけだが、果たしてそんなことでいいものだろうか。

*1:これも『論座』1月号所載の宮台真司・圓田浩二対談「10年後の援助交際」、または『征服少女たちの選択−After 10 Years』を参照(制服少女たちの選択―After 10 Years (朝日文庫)あとがきはこちら「http://www.miyadai.com/index.php?itemid=421」)。