「たまきはるいのち」を奪うものへの抵抗(その1 はじめに)

1.自分の文章への反省

◇私の書く文章は、よく言えば「総合的」、実際はいくつかの主題がごちゃまぜになっていて、たぶん他人からは恐ろしく読みにくいだろう。今まで[時事評論]として書いてきたものは、なべてそうした傾向がある。(ブログとしては異例にも?)細かな書き直しを相当しているが、実際の文章はひどく拙いものになっているのは自覚している。それを少し反省して、少しだけ時間の余裕ができたのを機会に、題材は同じようだとしても、少し整理して書こうと思った。
◇私の中に直観的に生まれたものは、大げさに言えばある種の霊感を伴って(inspireされて、つまりどこか他所から「spirit=いき」が入ってくるわけである)いて、それをなるべくそのままで示したいと思う。しかし、それを磨き上げる手間を惜しむと、結局最初の直観を裏切るものしか形にならないものである。日常でも会話(特に人への説明)への手間を惜しんで、自分の思いの9割方をうまく伝えられないままにしてしまう。それは職業人として伸びない理由の第1にもなっていると気づくようになった。
◇元は、むしろ言葉に対しての感覚や厳密さは、人並み以上であるという自負があった。詩を書いたりもした。有名な、桑原武夫の「第二芸術――現代俳句について」(1946)――江戸音曲と同様に、俳諧の伝統を「正しい芸術」を妨げる悪しき伝統とした論文――の中の、「専門家の十句と普通人の五句が見分けられるかどうか」という挑発問題から、素人の5句を迷いなく選ぶことができて、ざまあみろと思ったこともあった。
◇しかし、自分の書いた詩は、その後、こねればこねるほど醜くなり、明らかな素人芸に堕した。低すぎる(と思った)自分の声(まあ、実際相当に低音は豊か。肺活量5,000ml以上だから?)や話し言葉への違和感もあって、人と話すこと、人に向けて何かを話すことに、非常に消極的になっていった。

2.「濃い時間」を過ごすこと

◇さて、書き始めるまではこんなことを書く気は全くなかったのに、こんな文章が出てきて、自分で驚いている。「自分の中から自分でない何かが出てくる」、そうしたものが出てくる瞬間こそ、実は人間が人間自身になる瞬間である――。こうした言い方は、「自分探し」批判の文脈で、養老孟司内田樹などがよく語るところだろう。このブログの記事でも、実はそういうことを訴えようと、繰り返し繰り返し触れてきている。
◇しかし、今までの書き方では、とりあえずの時事ネタや乱雑な言い回しにまぎれて、肝心なことを語れていないと思うようになった。それで、内田氏のような名人芸の文章は書けないにしても、もう少し丁寧に書いてみようとしているわけである(実際、最初から丁寧に書ければ、後からこねまわさなくてもすむ(済む=棲む=澄む)わけだ)。
◇…この書き方の感じが無性に懐かしい。10年ほど前まで、私はこうした文章を書き、それは多少なりとも真実味を帯びて、人に何かを伝えられる文章だったような気がする。なぜ10年来、こうした文章を書くことができなかったのだろうか。
◇こういう文章を書くのに必要なのは、「時間」、しかもそれは単に量的に長かったり短かったりするような時間ではなくて、例えば「生きられた時間」とも言うべきもので、ある種の凝集度や燃焼度をもっているもの、宮台真司*1の用語で言えば濃密さ(アンタンシテintensity=強度)を伴った時間である。その濃密さというのは、こちらから焦って追い求めると、決して訪れることはない。現代の人間が鬱病になるのはそのためである。
◇人間(未熟な自我を持った人間)が焦って、せっかちに何かを追い求める。それは、カネであったり、モノであったり、ノルマであったり、仕事の成功であったり、満足であったり、幸せであったりするだろう。「ああすれば、こうなる」(by養老孟司)式に、「コレを得られれば、私(たち)は○○になれる」という信憑によって、確かに人はある程度まで駆動されうる。そりゃあ、欲動(drive)によって、人間がガシガシ進んでいくのは当然でしょう。その欲動を発するのに必要な栄養は行き渡っているし、例えば東京であれば、そうした欲動を次々と満たしていく手段はふんだんに提供されていて、通常それに事欠くことはない(というか、それを満たすための場が「東京」として作り出されている?)*2
◇ところが、そうやって自分が設定した目的に向けて、ひたすら前進しているはずが、しかし人間良くできているもので、実は「自分が駆り立てられている」ことにうすうす気づいている。その後の対処には、いろいろな機制(mechanism)が働く。例えば、自分の判断を放棄して何らかの価値共同体(ある種の宗教団体とか)に所属してみたり(宗教に入っている人がみな判断を放棄しているわけではない)、ある日突然「自分探し」をするとか言い出して、急にやりつけないことを始めたり、放浪したり。人生のある時期に、おそらく大抵の人がこの段階に達する。バタッと倒れて気力が全く失せるのはまだ大人しい方で、そのため鬱病になる人は几帳面かつ善良な人が多いのではないかと推測され、私なぞは鬱病経験者であれば、半ば無条件で好感を持ち、その人柄を信頼してしまうくらいである(…手前味噌に非ずや)。ちなみに、宮台真司の「欝体験」は、新しいところで『SIGHT』№31(2007春号)*3参照。なお、鬱病になる理由の本質が「焦り」にあることは、この号の特集「誰にも聞けない、欝のリアル」(細川貂々さんなど登場)を読み始めて分かった(早速アマゾン・レヴューにあるように、確かに必読ものかもしれない)。
◇「濃い時間」というのは、こういう「何かに追い立てられる人生」(ああ俺ってダメ)というのとは当然全く違うわけである。この時間は、「追い立てられる」のではないから「ゆったり」している。しかし、「のんびりしている」というのとも全然違う。団塊の世代向けに老後の第2の人生プランを売りつけるわけではないので、温泉イメージで捉えられても困る。むしろ、バリバリの働き盛りの30〜40代くらいが、この「ゆったりさ」を身に着けてもらわないと困る。
◇ちなみに、現代の日本社会になんとなく不安定感が漂ってきていたのは、社会の中核たるべきオトナの実戦部隊が、正にこの「追い立てられ」で余裕がなく、(それなりに人数が多いはずなのに)カリカリにやせ細っているのが大きな原因ではなかろうか。超少子化もむべなり。もっとも最近の好景気で(収入面での実感はゼロだが、世の広告は多少増えたか)、多少気分が上向いたかもしれない。けれど、根がフラフラだから、良ければよいで今度は舞い上がるわけである。芯が通っていない。とにかく多い団塊と、コミュニカティブでホスピタビリティあふれる若者世代に挟まれて、この世代全般に覇気がない(――人が多いような気がする。でも、それはごく限られた観察なので、間違っている可能性は高い)。
◇少し大仰に言えば、「濃い時間を過ごすこと」は、人間の<自由>と<自立>の基盤である。自分の意志で自分を処し、自分で生きていくことは、自分の中から自分を変えていく力が湧いてくるような状況でこそ可能になる。アレントを読むのもいいが(私もようやくこれから読む気でいるが)、例えばこの単純な経験的事実から政治思想の話を始めてはどうか。Sousinaito itsumadetattemo nakamauchidakeno jizduranoasobide owarunjanaikai? Tokuni Gokufutuuno Jinnbunn-Syakaikeino Sennseigata&Innseinominasama.(仮にヅをzduと表記してみた――ロシア語のローマ字表記を参考に、と言っても舌の位置がだいぶ違うような気はするが。)
◇…またしても文章に抑制がなくなってきたようである。

3.これから書くこと――いくつかの記事を手がかりに――

◇もう一度、「さて」。この「『たまきはるいのち』を奪うものへの抵抗」と題したシリーズで書こうとしているのは、最近のいくつかの新聞・雑誌記事を参照しながら、グローバル化の中の日本社会が子育て・教育・学問・貧困・戦争などの問題をめぐって、いかに不要な逡巡と大騒ぎを繰り返しているかについて、私見を述べてみたいからである。メディア企業やジャーナリズムと称するまがいものたちがそれを助長していることは、何度か書いてきていて、当面それで十分だと思われるので、もう少し人の生き方の核心に迫るようなところを書きたいと思う。今までは細木数子の「ズバリ」に仮託していたが、そろそろ自分でしっかりと語らなくてはなるまい。
◇もっとも…、書き始めにはシリーズ全部か少なくとも「その2」までを書いてしまうつもりだったのが、思いのほか「その1」(しかも本題前)が長くなったので、後は尻つぼみか、書く暇がなくてそのまま終わってしまうかもしれないけれど(←以前からこの傾向あり)。

*1:なお、パトリ(いわば「再帰的原郷」)について触れたこの記事は、このシリーズの「濃い時間」や「たまきはるいのち」と関わって、興味深い。「http://www.miyadai.com/index.php?itemid=472

*2:東浩紀北田暁大『東京から考える』は最初の方を読みかけ。『中央公論』4月号鈴木謙介による、短いが秀逸な――それ自体価値ある――書評が載っている。鈴木氏は最近毎号登場していて、実に好い書評を書いている。私としては、アンケートでの登場リクエストを拾ってもらったように感じて嬉しい。中央公論 2007年 04月号 [雑誌]

*3:SIGHT (サイト) 2007年 04月号 [雑誌]