「たまきはるいのち」を奪うものへの抵抗(その2 子育ての論)

1.佐藤俊樹「世間にうずまく『子育てデフレスパイラル』」(『中央公論』4月号*1「時評2007」)より

社会学者として、多面的に活躍する佐藤氏。この『中央公論』の2ページの時評でも、毎月なかなかの存在感を見せている。
◇標題の「スパイラル」の含意は、子育てプレッシャーをかける人々への批判である。

実際、「子どもをよく育てろ」というプレッシャーはおそろしく強い。少子化でそのプレッシャーはますます強まって、それが育てられる数をさらに減らしている。いってみれば、少子化デフレスパイラル状態だ。

この「よく育てろ」プレッシャーは、誰が誰に向けてかけているのか。
◇佐藤氏が問題にするのは、「子育てが失敗したら、親の人格・能力まで疑われ、失敗者であると烙印を押される」という事例である。挙げられている例で言えば、渋谷区の歯科医一家の殺人事件について、「セレブ一家の内実はぼろぼろ」的な見方の流布に対して、佐藤氏は「もしあの一家をセレブだというのなら、殺人事件がおきたとしても、両親はやはりセレブで成功者だ。そこを貶める理由はどこにもない。」と言いきる。
◇私は別の観点で、この両親が事件後まだ間もない時期に(すでに煽った「報道」が出ているために)出したコメントの冷静さ――子供の間で殺人が起きたにもかかわらず、それに当然に人間として困惑しながらも、その社会的影響を考慮しながらそっとしておいてほしい旨を理路にしたがって述べる「理性」を感じさせた部分――に感心した覚えがあるが、佐藤氏が書いたことは少し力点が違う。
◇「子どもを良い子を育てる(そのために必要なことをする)」ことは至極正論だが、それを裏返して、「こいつの子どもはロクでもなかった。だから、この親の子育てはダメだ」と判断し、さらに尾ひれをつけて、「子育てもまともにできない親なんだから、こいつは人格的にも能力的にも信頼できない」という判断を勝手に付け加えるな、ということである。
◇なぜなら、そうした判断は、次のような悪循環を招来するからである。「子育ての失敗とその親の人格・能力を結びつけるような判断」が世の中に蔓延すれば、それがまたロクでもない副作用を引き起こす。「子育てに失敗すれば、失敗者の烙印を押される(特に人間や社会を管理するような管理職や物事を研究するような専門職には致命的だ)」→「子どもを(問題を起こさない)『良い子』に育てなければならない」→「子どもは親の説教の中に、親自身の都合や利害がはりついているのを敏感に察知する」→「子どもは結局、親もロクでもない社会の一部でしかないと思い、よりどころを失う」。
◇私の勝手な要約なので説得力が怪しく感じられるかもしれないが、それより、この話に続けて、佐藤氏が「そんな親はだらしないのだ、愛情が足りないのだ、といいたい人もいるだろう。でもあなたが本気でそう思うのなら、自分でできる簡単な解決方法が一つある。あなた自身が、子育てとそれ以外の面をリンクさせて他人を見るのをやめればいい」と述べるのに、はっとさせられる。「子どもを立派に育てられて一人前」という価値観と、先ほどの誤謬判断は紙一重ではないか。私自身も価値観として子育てを重視するあまり、ブログに書いた発言などで、「子育てプレッシャー」を強化し、スパイラルを回転させる側に立っていたのではないか。こうした自覚と反省をもたらしてくれるような文章は貴重であり、それならやはり社会学は立派な学問だと思えるわけである。
◇私などは、たまたま連れあいとその実家に教育力があって(特に語りかけなどの言語面)、子育てが比較的順調なので、無責任なことを言っているだけかもしれない。そう言う自分こそ、足元を掬われる可能性もあり、また、人に偉そうなことを言って子育てへの意欲を殺いでいるかもしれない。――というわけである*2

2.子育てに必要なものとは

◇子育てについて、事後的にあるいは事前的に、いろんな人がいろんなことを言う。例えば、私は私的な価値観としては、子育ての要諦をただ一つ「わがままを許さないことだ」と思っているとする(事実、最近そう思ったことがある。なぜ分かるかと言えば、ブログに書こうかと思ってメモしていたから)。しかし、こういう言い方は、佐藤氏の指摘を踏まえて反省すれば、やはり問題がありそうだ。
◇私のそのメモの後段には、こう書いてあるのだが、「それ以外はただ自然に(愛情をもって)接するだけ」。これにも留保をつけないといけないが、これを書いたときの意図をもう少し拾うと、「自然に接する」ことの内実を、「モノではなく人として認める」と書いている。
◇当たり前だろう、子どもをモノ扱いする親がどこにいるか、と言われそうだが、ある意味では親もしょっちゅう子どもをモノ扱いしているわけである。「ああ、私が○○しようとしているのに、わあわあ言って邪魔くさい!」と感じるときの子どもが、(ある目的に向けて行動しようとしている)私にとっての障害物でなくて何であろうか。
◇「私がああすれば(足手まといの子どもさえいなけりゃ普通にできるから)、もっとこうできるのに」という行動、というかそれをせきたてる意図、というかそういう意図を事後的に構成する切迫感と焦りが、「自分は子育てをさせられている」という下意識と相まって、子どもを邪魔者扱いさせるのではないだろうか。
◇してみると、子育てというのは、「する」ことではない。いや、「する」ことは、食事の世話から、うんこの始末から、嫌と言うほどあるじゃないか。…そうではなくて、子どもの世話ですることがたくさんあるというのと、「子育て」をするというのとは完全に同義ではない。子どもが育つのには、そういうこまごまとした世話が当然必要である。しかし、子どもが何だか育っていくのは、そうした世話をしたからだけではない。何も「しなかった」余白が、それよりもずっと多くあるはずではないか。「何も起こらないことの大切さ」(養老孟司『養老孟司の<逆さメガネ>』*3第6章など参照)とでも言うべきか、子どもと特段何もしないで一緒にいることは極めて重要である。
自治体の保健サービス(「母親学級」「両親学級」)などで行われる「子育て指導」では、「子どもと遊んであげましょう!」とせきたてられる(そういう意図はないだろうが)かもしれないが、ある段階からはむしろ逆になるはずである。1歳を過ぎれば、暇でも一緒にいてやれば、子どもの方から遊んでくる。子どもの自発性は、本来干からびかけたオトナに数倍するはずである(そういう自発性が育つ以前に虐待されるなんて言うのは論外で、だからこそ先ほどのような指導に意味があるわけだが)。
◇それでは、子どもと一緒にいる大人が、「ああすれば、こうなる」式の志向をいったん停止して、子どもに素に向き合うには、何が必要か。それは、子どもに何をどうするという話以前に、大人の生き方に子どもを受け容れる余裕があるか、ということにならないだろうか。
◇先のメモに私はこう書いていた。「一日にわずかでも必ず子どもと正面に向き合う時間を持つこと。心底、自分の時間を犠牲にするのを厭うことなく、子どもの相手をすること」。まず「自分の時間を犠牲にする」という発想そのものが、「生きられた時間」ではなく計量された時間を前提にしていることが分かる。要するに「ただ、子どもの相手をすること」でいいのだろう(人間は本来、人間同士で「ゴロゴロしながら、むれる、じゃれる、たわむれる」ことが好きなはずだ、という感覚を取り戻したほうがいい)。
◇正確な意味で「人と向き合う時間」は、やはり「濃い時間」であって、そこから自分が予想しなかったものが生み出される時間である。「子どもが育つ」という現象ほど、「先ほどまでこうではないと思ったものが、正にこのように現実化する」という変化(アリストテレスで言えば「エンテレケイア」か)を体現しているものはないだろう。意図が裏切られることこそ、実は喜ばしいことである。予測がその通りになることは、予測の正しさを証明するかもしれないが、それ以外に誰が得をしたわけでもない。
◇また、メモにこうある。「『生きる力』は育てられない。放っておけば、雑草のようにはびこるし、手を入れすぎれば、その分萎れるだけ。」これも不十分な言い方ではないかと思うが、ある段階に達すれば、子どもの自発性は、勝手に(親の意図を軽く超えて)伸びていく。それを、「ああすれば、こうなる」式にコントロールすることはできない。ただし、要点を押さえて、より望ましい方向に導くことはできる。じゃあ、どうすれば…と言われると困ってしまう。それは、半分以上子どもの天然(nature)が決めることで、誰かが勝手に決めるわけにはいかないだろうから。
◇だから、子育てについては誰もが言いたいことを言える。というのは、子どもを育てるのに決まった(ああすれば、こうなるような)方法はないからである。それは、まだ小さい赤ちゃんを洗うやり方がある程度決まっている、というような世話の仕方の問題とは、全く別の話になっているわけである。子育てをうまくいかせるような私的価値観は無数にありうる(=子育ての<自由>)。
◇強いて言うならば、相手方と実家の親の話は参考にしてよいかもしれない。ただし、むかし育児書で読んだような知識を聞くのではなく、自分が赤ん坊の時に何をしたかを聞くわけである。それは紛れもない、「生ものとしての自分」が引き起こしたことで、それと似たようなことを自分の子がしたり、自分の身に引き比べて子どもの気持ちが分かったりすることは、大いにありそう(probable)なことだからである。
◇「子育て」とは、本来そうしたインフォーマルな伝達によって、十分行われるし、むしろそれに従ったほうが良いような性質のものなのではないだろうか。「いくつくらいの月齢・年齢になれば、○○をする」式の情報は、障害を早く発見する以外の意味はないと思われる。
◇現状では、子育て産業がかまびすしい割には、子を育てる親はそれくらいのことはわきまえているかもしれない。佐藤氏の言うように、「子育て」となると急に評論家ぶってしまうような態度の方が問題かもしれないし、あるいは、親になることを選ばない人々の中に、ある程度慣れ親しんだ「ああすれば、こうなる」式思考と違った「子育て」への戸惑いや怖気づきがあるのかもしれない(し、あまりないかもしれない)。
◇実際の子育てに携わらないと、こうした感慨を覚えることが少ない。現代の親の多くは、親になって改めて、ああこんな感じかと、あの「時間」の感覚を思い出しているのかもしれない。虐待を行ってしまうような親の心を忖度すれば、やはり子どもが障害物に見えていたのかもしれない。子育てには「ゆったりとした時間」が必要だ、と言うことは許されるだろう。
◇このことは、次の問題である「教育(特に学齢期の)」にも通じることだが、しかしこの「教育問題」ほど紛糾し、論者の意見の量だけがひたすらに膨大で、その実はまことに実がない分野もないのではないか。次回は、「教育の論」を書こう。

*1:中央公論 2007年 04月号 [雑誌]

*2:以下の議論にも関わるが、最近の東浩紀氏の発言でも、少子化の原因は(ライフスタイルの多様化以上に)固定化した育児規範の圧力が強いからであり、肝心なのは「楽しく子育てができること」だと触れているものがある。東浩紀北田暁大『東京から考える』p69-70東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

*3:養老孟司の“逆さメガネ” (PHP新書)