第15回オーケストラ・ダスビダーニャ定期演奏会の感想
◇ここのところすこぶる多忙だったわけだが、これは行かなくてはならない。ショスタコーヴィチ専門アマオケの年に1回限りの定期演奏会*1。しかし、他の人も言うように(本エントリ末尾の感想リンク集参照)、セミプロかある意味ではプロ以上のオーケストラである。
◇この日(2/11)は、家で仕事をした後、ダスビに出かけ、その後に同僚と呑み、帰ってまた仕事というスケジュール。あまりにどたばたしていたので、電車に飛び乗り、ファストフードをかきこんで、「ああ、もう開演15分前だ!」と思って、東京芸術劇場の長〜いエスカレーターを駆け上がると、??? 扉が開いていない。…「開場15分前」に到着してしまいましたとさ。(←フライング早過ぎ)
◇その結果、CD売り場にも一番乗りしてしまい、いつもの売り子さんから「昨年の演奏会のCDはこちらです」と案内を受け、「これでは超熱心なマニアみたいだ」と恥ずかしかったが、実際マニアなのでしょうがないかと思い、CDと引越しでどこかに紛れてしまった過去のプログラム(交響曲第2・3番とステンカ・ラージンの処刑の訳詩つき)を購入。開演前に、自分のプレーヤーでCDを試聴する。この時点で、かなり挙動不審と思われ。
◇そして、LB扉付近の座席へ。そういえば、今回はチケット申込みもたまたまメール案内を受信して1時間以内に申し込んだ(今までは12月中くらいに申し込んでいたが)ので、オケをすぐ下に見下ろす特等席。そこでプログラムを開くと…、本日のメインである交響曲第11番「1905年」にメロディーとして引用される革命歌7曲分の歌詞対訳が! この曲のメロディーが革命歌の引用であることはよく知られているが、純管弦楽曲なので曲目解説などで歌詞について触れられることはほとんどなかった。しかし、当然ショスタコーヴィチは歌詞を前提として作曲したはずで…。実に貴重な資料というのはもちろんだが、その歌詞の内容がまた凄い。
◇許諾を得ていないが(すみません。いいのかな?)、1節だけ引用させていただくと、
怒り狂うがよい、圧政者どもよ、われらをあざ笑うがよい、
監獄もて、枷もて、猛々しく威(おど)しつけるがよい
われらの心は堅く、物もて踏みにじられようとも
恥辱を、恥辱を、恥辱を、汝らに――圧政者どもよ!
と、実に曲想に合っていて、激しい。
◇後で書くように、この交響曲第11番に対しては、ショスタコーヴィチのみならず、ロシアクラシック音楽ファンとしての私個人の思い入れが凝集されているようなところがあり、この歌詞を読んだ時点で、激しく感動し、私は冷静でいられなくなった。(ちなみに、私がダスビの定期演奏会に初めて行ったのが第5回なので、第4回のダスビ1回目の第11番は聴いていない。)
◇前振りが長かったが、それぞれの曲について、感想を書き付けておこう。
ノヴォロシスクの鐘
◇「祖国大戦争」(第2次世界大戦の独ソ戦)の英雄都市と称えられたノヴォロシスク市の時計台のメロディーとして作曲された小品。もとは国歌コンクールに出品しようとした曲のフレーズを使ったということ。演奏は、荘厳にして華やかな雰囲気で、ここ数年来のダスビの美しい音色によく合っている。この「良さ」は、なかなか言葉にしづらいが、この雰囲気こそオーケストラの醍醐味で、これがあるならアマだろうがプロだろうが関係はない。ダスビダーニャは実に「好い」オーケストラであるといえる。
◇冒頭は、本来チェレスタが指定されているところ、今回はハンドベルを使用(アテンポ ハンドベルリンガーズが担当)。これは、かなり議論が分かれていたようだが、演奏は充分成功していた。ダスビは、私のようなマニアックな聴き手がいる一方で、最近は子連れのお客さんも随分多いし、従来から演奏会は(ショスタコーヴィチ・マニアでなくても)それ自体として楽しめるように選曲が工夫されている。ショスタコーヴィチ自身の音楽も、この上ないシリアスさの一方でどこまでもユーモアを感じさせる特質を持っているので、ハンドベル起用はよかったのではないか。ドミトリ様にもご嘉納いただけるかと*2。そして何より、実際の「鐘の音」を入れることで、第11番への実にふさわしい序奏となっていたといえるだろう。
◇そういえば、これは、第10回定期演奏会での、『葬送と勝利の前奏曲』と交響曲第7番の関係と同じだったわけだ。さすが綿密な戦局(選曲)会議を経ているだけはある、見事なプログラミング。
交響曲第9番
◇この曲の歴史的いわく(スターリンが期待した戦勝に際しての壮大な「第9」をあえて外した云々)はもちろん前提として、純音楽的に言っても、モーツァルト、ベートーヴェン、ムソルグスキー、チャイコフスキーへのオマージュとなっていて、この曲は好きだ。
◇それにしても、今回の演奏の恐るべき練度。初めは客席の方がついていけていなかったが、第2楽章ワルツの重さで落ち着いてきた。昨年のヴァイオリン協奏曲第1番を思い出させるめまぐるしいスケルツォ(第3楽章)、重く鳴り響く「カタコンベ」のラッパ(第4楽章)、力の抜けたところから(この時のマエストロの、サーカスの熊のような(失礼多謝)ダンスが何とも魅力的だった)じりじりとせり上げていくフィナーレ(第5楽章)へと、聴いていて心拍数が上がって少々苦しかったくらい。
◇ことに木管、中でもフルートとオーボエの存在感が格別。オーボエは、少々つぶれたような音だったが、普通ならオケの中で埋没しそうなところをブィィィと響かせていてとても印象的だったので、わざとそうしたのかなと思う。
◇こんなに堂々として集中力のある「第9番」は、なかなか他所で聴けるものではないだろう。…それにしても、文章ではなんとあの魅力の伝わらないことか! 筆力のなさを憾むことしきり。とにかく前半から凄いボルテージだったというしかない。
交響曲第11番「1905年」
◇正直に言えば、この曲だけは、いくらダスビの演奏だといっても聴くのは非常に気が重かった。その理由はいくつもある。例えば、ムソルグスキーの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』『ホヴァンシチナ』に描かれたロシア民衆の苦難の歴史と共鳴するような背景に過度に思い入れてしまうとか、最初に聴いた北原幸男指揮のNHK交響楽団の定期演奏会での演奏(1992年3月25日)の印象が強くて(今聴くとオケの音は実にショボい感じもするのだが)*3なかなか他の演奏を受け容れられないとか、2003年のイラク開戦前の緊張感漂う第10回定期の第7番を思い起こして終演後にまた絶叫しそうだとか、よりによっての現今の日本の政治状況(ブログに書く気にすらならない)だとか…。
◇しかし、最大の理由は、自分の悩み多く恥多い20歳前後に何度となくこの曲を聴き込んでいたということに由来するといえるだろう。案の定、すでに第1楽章の半ば、コントラバスが暗く歌う*4ところで(後ろの席からすすり泣きが聞こえてきたせいもあるが)、本当に泣いてしまった。不覚。
◇曲全体は、団長による解説にも示されていたが、ナラティブ(語り)の形式を持っている(ハープがその象徴か)。「あの時、王宮前広場が人々で埋め尽くされた時、騒然とした声がふと止んで、誰からともなくロシア正教の祈りの形式にのっとって皇帝への誓願の声が上がった。どうぞ救いをお与えください、と。ところが…、あの銃声が響いた。最初に「助けて!」という声が上がるまでには相当な時間がかかり、それまで人々は何が起きたのかさえ理解できなかった。云々」。
◇こうした描写的な音楽が続くせいもあってか、第3楽章までは(もちろん相当高度な演奏なのだが)ダスビならではという部分はあまり感じられなかった(やはり私の中で北原の影が色濃い)。しかし、フィナーレである第4楽章はずっしりした冒頭から出色。曲の結末は分かっているはずなのに、アレグロに突入すると、先に引用した歌詞に対応するであろう前半までは、本気で「私たちの勝利と革命の成就」すら信じてしまいそうになった。そうであってほしいという願望を私の中に呼び起こす演奏だった。
◇しかし…、再び冷気とともに現実に引き戻される。静寂の中から、無数の人々の声が次々と語りだす。「忘れるな。忘れるな。私たちを忘れるな。そして、夢に迷うな。闘い敗れても、それでも生きよ。」というように。2度目の不覚。
◇最後の鐘の長い残響が消えた後、客席でもんどり打つ醜態をさらす私がいた。
◇こうして今思い出すだけでもその度に目じりが熱くなる。上記の人々の声は、主に木管で響く。奏者が、助けを求める声を発し、また革命闘士となり、そして警句を発して語りを締めくくる。終演後は正に絶句するしかなかったが、このような演奏を可能としたすべての人々に感謝の気持ちを表わしたい。
◇…さて、ずいぶん後発になったので、他の人の感想のリンク集を作ってみる。それぞれ興味深い文章になっていて、感想も豊作というべきか。
(演奏者)
「ダスビ演奏会(2/11): ひげぺんぎん不定期便」
「http://kaorina223.jugem.cc/?eid=1227」
「2月11日本番1: 電車行っちゃった男の妻(2)」
「ダスビ本番 | 委員長の小部屋」
(聴衆)
「オーケストラ・ダスビダーニャを聴くべく上京す! - まっしゅ★たわごと」
「タコは生にかぎります!!: 走れコウタロー」
「オーケストラ・ダスビダーニャ第15回定期演奏会: My Tune」
「http://pub.ne.jp/prelude/?entry_id=1207697」
「お〜マニアック・ロシアン・サウンド : 新しい世紀のための音楽」
「http://yurikamome.exblog.jp/8211585/」
「オーケストラ・ダスビダーニャ:ショスタコーヴィチ9番11番 他 - Diary::Salt」
「ショスタコーヴィチ祭(今命名)、初参加 | ロバの耳~!」
「ま、適当に オーケストラ・ダスビダーニャ 第15回定期演奏会」
「初ダスビ! - Freaky Flower」
「http://d.hatena.ne.jp/TICTAC/20080211#p1」
「赤い演奏会観戦記(2/17up すんません) : お局は愛されるより恐れられろ」
*1:前回・前々回の感想は「オーケストラ・ダスビダーニャ第14回定期演奏会の感想 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」、「オーケストラ・ダスビダーニャ第13回定期演奏会の感想 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」
*2:ロシアの引き鐘とでもいうのだろうか、多数の鐘の舌にひもがついていて、それを弾き鳴らしてチンガラリンチンガラリンと鳴らす奴。アシュケナージ管弦楽編の「展覧会の絵」(再発盤があるがAmazonでは見当たらず)や、フェドセーエフが荘厳序曲「1812年」で使っている。そうした鐘のイメージや、リャードフのピアノ曲「音楽の玉手箱」(このCDはとても好きだ)のイメージなどとも重なる。
*3:北原幸男指揮NHK交響楽団/ショスタコーヴィチ交響曲第11番 なぜか翌1993年にコッホシュヴァンからCDがリリースされて、見つけたときは驚いた。クリュイタンス指揮フランス国立放送管弦楽団/ショスタコーヴィチ交響曲第11番 いわゆる御前演奏。これも手に入りにくそうだ。コンドラシン盤など、また聴いてみよう。題材が生々しすぎて解釈が狂うせいか、この曲に限ってはロシア人指揮者の演奏はあまり好くない。誰かが誉めていたヤルヴィDG盤は持っていなかった…。【2/23追記】「今聴くとオケの音は実にショボい感じもするのだが」は、前言撤回。改めて、ムラヴィンスキー、コンドラシン、ロジェストヴェンスキー、クリュイタンス御前演奏などと聞き比べてみたが、北原の極めて禁欲的な解釈は確かに群を抜いている。ピアニシモは本当にこれでホールに響いているのかと疑うくらいに微か(録音が少し遠めなせいもあるが)。それに、この曲の楽章間は本来切れ目がないが、実に長い静寂を置いている。非常に美的に磨き上げた解釈で、この曲の演奏の極北と言える。ただし、それによって、ショスタコーヴィチの音楽が持っている祝祭(カーニヴァル)性・猥雑さは殺がれてしまっているのだが…。それと、上記の古典的な録音では、どれも最後の鐘の残響はほとんど入っていないか、非常に短い。ということで、やはりダスビの今回の演奏が私のベスト盤になりそうである。【3/5追記】この辺り書き方が非常に不十分だったので、新エントリに詳述した。「ショスタコーヴィチ交響曲第11番8種聴き比べ(ダスビ感想外伝) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」。