書評『日本思想史ハンドブック』

日本思想史ハンドブック (ハンドブック・シリーズ)
◇2月末に近所の本屋に行って、普段はチェックしない「哲学・思想」コーナーが「ふと気になって」覘(のぞ)いて、見つけたのがこの本だった。以前取り上げた『概説日本思想史』*1は出版後1年半も見逃していたのに、この本を出たばかりで見つけることができたのはとても嬉しかった。
◇それから世事の合間に(私としては一気に)読み進めて、Amazonのレビューにも投稿した。以下、それに基づきつつ、いろいろ書き加えて掲載する。

「日本思想史」の画期的な入門書

◇ともに1965年生まれの苅部直氏・片岡龍氏という2人の編者によってまとめられた日本思想史の入門書。日本思想史学は、特定の思想・宗教にとらわれず、日本に展開した思想を歴史的に取り扱って研究するが、この分野でこうした一般向けないし研究の手引書が出版されたのは初めてではないだろうか?*2 充実した内容と丁寧な構成で、広くおすすめできる本に仕上がっている。
◇執筆者も多数が1960〜70年代生まれで、「日本」や「思想」を語る言葉がようやく古臭い枠組みを脱して更新されたと感じる。ミネルヴァ書房佐藤弘夫ほか『概説日本思想史』が詳細に書き込まれた大学教科書レベルなのに対して、この本は最新の研究成果を盛り込みつつ、新書館ハンドブックシリーズの2〜4ページのテーマ記事形式を活かして、誰でも手軽に読み進められるようになっている。ただし、その記事を単に時代ごとに配列するのではなく、以下のように構成されているのが効果的である。
◇時代ごとのテーマ記事は、古代・中世(8本)/近世(12本)/19世紀(14本)/20世紀(11本)。古代・中世の記事が少ないのは、編者の苅部氏も「まえがき」で気にしているが、通史ではないのでやむをえないだろう。その分、古代・中世で取り上げられているトピックは興味深いものが多く(私としては、『神皇正統記』、禅、「公方」が興味深かった)、充実している。手厚い近現代では、近年世間で話題になったアジア主義国家神道、植民地、日本浪漫派、戦後の近代主義、民主主義、「沖縄」などの領域がカバーされている。また、これらの時代ごと記事から発展して「もっと知りたい人のために」という記事が、従来の研究の蓄積と現在の最前線を簡潔にまとめている。
◇冒頭には、「日本思想史の切り口」という記事が7本(日本思想史における「神話」*3など)置かれ、通時代的に思想史を読み解いているのが意欲的だし、学問としての面白さを伝えている。他にも「思想史家たちの横顔」として、津田左右吉村岡典嗣和辻哲郎小林秀雄(!)・家永三郎・島田虔次・丸山眞男の7人を取り上げて、日本思想史研究がどこから始まったのかをフォローしている。
◇また、編者2人が64冊の「ブックガイド」を執筆しているが、記事との重複を避けながら、堅実な学術書はもちろん、山本七平梅原猛、見落としがちな名著や科学史までカバーしている。私も世代が近い人間として読書歴の共通性を感じるし、学問的な誠実さ、研究者としての良心が伝わってくる。
◇むろん残された課題はあるが、それは日本思想史全体に関わるし、編者自身もそれについて触れている。例えば、京都を中心とした文化圏の中世後期以来の「心」を磨く学問伝統と徂徠学との衝突(p93)、などについてである。私見では、そこに「朝鮮心学」(p101)や、近世後期の「理学」の展開という筋道を補強することで、近世〜19世紀の思想史研究は厚みを加えることができると考えるが、今後の研究の進展が待たれるところである。
◇以前、『概説日本思想史』の書評をした際には、苅部氏が『中央公論』2007年1月号の記事でこの本を取り上げなかったことに、筋違いな噛み付き方をしたのだが、今回「はしがき」では、ミネルヴァ書房の『概説日本思想史』とぺりかん社の『日本思想史辞典』*4を姉妹編としてあげている。正に、この3冊でようやく現代的水準の「日本思想史学」の基本書籍がそろったことになる。1973年生まれの私が大学で日本思想史学を学んだ時は、基本図書がそもそも存在しないか、ことごとく絶版だったのと比べると隔世の感がある*5
◇陳腐な「保守」が跳梁跋扈したような流れを受けて、ようやく世間の「日本」への関心と地道な研究がリンクし始めたのだとすればやや皮肉な話ではあるが、「日本思想史学」という学問分野が今の時代に求められる役割は大きいはずだ。
◇例えば、今週の『週刊エコノミスト』だったと思うが、榊原英資松岡正剛の「日本的なシステムを活かして…」といった議論に、「その内実が明らかでない」と反応していた。「(中国でも、欧米でもない)日本固有のものを求めるが、その内実は常に空虚云々」といった反応は、これまでも幾度となく繰り返されてきた議論のパターンである。こうした悪循環を、佐藤弘夫氏が主導するような実証的かつ既成の枠組みを捉えなおす研究が断ち切ってくれることを期待する。
◇このハンドブックでも、特に近世以前については、「歴史」としての面白さの一方で、それが「思想」として何なのかをもっと語れる可能性はあると思う。つまり、「思想」はその時代に生きられたものであると同時に、思想の系譜がそれ自体生き物のように連なっていく様を描いてほしいようにも思う。概説の書評の時はそれを「概念史」と表現したが、例えば中世から19世紀にかけて、「理」とか「心」とかいう言葉で、何が了解されてきたかを、私はよりしっかりと把握しておきたいと思う。
◇もう1人の編者の片岡龍氏は、現代日本の「下降の時代」に際して、「本書は、この現在われわれがおかれている挫折感、敗北感の中から真剣に立ち直りたいと考え、それを来し方に遡って探ってみよう希求する人々のために、その手引きとなるべく編まれた」と、「あとがき」に記している。当ブログでも多額な授業料を貪り「入院患者(大学院生)」を多々生み出すような「大学行政」については多々批判的見解を記してきたが、このような篤実な研究者が大学での「日本思想史学」を引き継いでいることは、実に喜ばしい。
◇こうした良書の出版が研究の機運を盛り上げてくれることを切に望む。

*1:書評『概説日本思想史』 - ピョートル4世の<孫の手>雑評概説 日本思想史

*2:2005年6月には、『現代思想』増刊で『総特集 ブックガイド日本の思想』が出ているが、これは裏表紙の「A GUIDE TO JAPANESE CLSSICS」の方が適切な題名で、興味深い記事はあるにしても、かなり文学・史学寄りの構成だった。現代思想2005年6月臨時増刊号 特集=ブックガイド日本の思想 『古事記』から丸山眞男まで

*3:なお、この記事の中に『天経或問』が出てくる辺り、あ、さすが筋がいいな、と感心してしまった。自分も研究上読んでいたので。

*4:日本思想史辞典

*5:と書いたら、『日本思想史辞典』は残念ながら品切れのようだ。