方法5「親しみやすい曲から聴く」

ミャスコフスキーの正体不明の作風は、馴染めないと本当に馴染めないので、20世紀後半の前衛音楽より性質の悪いとも言われるが、それにしても、暗い曲を書けば沈鬱な作風でもやもやしてはっきりしないと文句を言われ、明るい曲を書けば体制迎合的だと非難されるのは、やや可哀想だ。「じゃあなんで、スヴェトラ御大は晩年近くにこれだけの情熱を傾けて、この全集を録音したのだ!」ということになってしまう。深遠な曲も、明快な曲もそれぞれ魅力的な曲であり、スヴェトラーノフの演奏がそのどちらも実に見事に描ききっているのが、この全集の圧倒的な魅力である。
◇ミャスコ嫌いに陥らない方策として、傑作から聴くことに加え、親しみやすい曲を偏見無しに聴くことが大事だろう。第12番ト短調作品35(1932)★★(かつて「コルホーズ」のタイトルで呼ばれたもの)や第18番ハ長調作品42(1937)★の2曲は、それぞれ「十月革命」15周年・20周年に捧げる作品とされているが、実際は新古典主義的な、しかもパロディ的な要素も強い作品である。第12番は、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」をやや穏当にした感じ、第18番は、ディズニー映画に使えそうな可愛い雰囲気の曲である。ロシアの農村を描いたような明快さとムソルグスキーに由来するだろうパロディ性は、シュニトケの多様式性や哄笑性を先取りしている。一方で、特に第12番は交響曲としての構成の重厚さもあるので、この曲はぜひしっかりと聴いておきたい。
◇そもそもソヴィエト音楽に体制迎合的というレッテルを貼ることにどれだけの意味があるだろうか。カバレフスキーフレンニコフの「社会主義リアリズム」的作風は確かに陳腐だが、それは単に作曲家の力量の問題でもあるのではないか。少なくともミャスコフスキープロコフィエフショスタコーヴィチに比べて体制に妥協的な作風だったとは全く思えない。迎合的というなら、アメリカに渡った後のコルンゴルトの映画音楽などの方がよほど「大衆迎合」的だろう(もっともあまり迎合しなかったバルトークの「悲惨」はよく知られているが)。
◇もう1組挙げれば、まず第23番イ短調作品56「交響組曲(1941)★★が親しみやすい。3楽章形式だが「組曲」と銘打って擬中世的、東洋的な雰囲気の楽想が、ミャスコフスキー交響曲としては色彩豊かな管弦楽法で描かれていて、楽しめる(グラズノフ組曲「中世より」や「東洋狂詩曲」、ボロディンの「韃靼人の踊り」、リャプノーフの交響詩「ハシシ」などを意識しているだろう)。
◇一方、第22番ロ短調作品54「(大祖国戦争の)交響バラード」(1941)★★★は、迫りくるナチス・ドイツ軍に対する恐怖と闘争を題材としている。といっても直接戦争描写がされるというよりは、緊迫感漂う流麗な楽想が連続して聴き応えがあるという感じの曲。ただ、第3楽章(第3部)はバンダも入って、ハチャトゥリアンのかの怪曲、交響曲第3番(交響詩曲、シンフォニヤ=ポエマ)を思わせる雰囲気がある。
◇なお、ミャスコフスキーの楽想を理解するうえで、彼の下で学んだハチャトゥリアンから入るのは有効かもしれない。ミャスコフスキー緩徐楽章の歌いまわしの美しさは、ハチャトゥリアンの「スパルタカスとフリーギアのアダージョ」などを知っているとよくわかるし、アレグロにアクセントをつける打楽器の「ガーシャ、ガシャ、ガッシャ」という鳴らし方もそっくりだ。