「たまきはるいのち」を奪うものへの抵抗(その4 自由と魂の幸福について+「政権選択」選挙に際して)

◇前回の「身辺雑記より」に続けて、魂の主題をめぐる原理論を記す。ようやく「たまきはるいのち」という表題の意図を明かせると思う。
◇そもそもこのエントリは、5/9頃にはいったん書き終えていたのだが、さらにこれに続く最終部分を書き続けていたところ、周囲の現実の進行の方が早まって(例によってドタバタしていたわけだが、7月には私や周囲の人を呑み込む決定的な大波が襲った―これについてはまた書く機会があるだろう)、アップするに至らなかったものである。
◇また、2007年参院選挙のまとめ以来の政治情勢についてのエントリとなる、「政権選択」選挙に際しての所感を追加した。
(前回のエントリ)
「たまきはるいのち」を奪うものへの抵抗(その3 身辺雑記より) - ピョートル4世の<孫の手>雑評

「たまきはるいのち」とは何か

◇そもそも表題の「たまきはるいのち」について、これまできちんと説明していなかった。これは、2年前に(その1・2)を書いた際に知人から聞かれていたことでもあったのだが、答えないままになってしまっていた。これは、中西進氏の本『ひらがなでよめばわかる日本語』(新潮文庫)*1から採ってきた言葉である。中西氏については、保守系出版社からもいかにもな感じでエッセー本が出ていたりもするが、氏の語源説はユニヴァーサルな志向を持った、実に興味深いものである。
◇さて、その「たまきはるいのち」だが、例えば『万葉集』の歌に「直(ただ)に逢いて 見てばのみこそ たまきはる 命に向かふ わが恋止まめ」というように使われている。
◇中西氏の解説によれば、「たま」は霊魂、「きは(際)」は極限を意味しており、「魂の極限にまで達すること」が、「たまきはるいのち」の内実であるという。つまり、古代人にとって、魂(たましひ)は、命の終わりとは別に、「永遠の生」を想像させるものであり、ここでは「わが恋」を、魂が極限に達するような「永遠の生」に等しいものと歌っているわけである(中西氏はそれを説明するのに、ゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスによって、「無限大」を持ち出してきている)。
◇ここで歌われるような前近代の「霊魂」といった観念を、山崎闇斎学派のように実在論的に捉えて、先祖の霊魂の気と子孫である自分の霊魂の気が感応するなどと言いだすと、たちの悪いオカルトになってしまうが、石田梅岩や鎌田柳泓などの心学=理学者たちが理解していたように、「神」や「魂」はあくまで唯名論的に、私たちの人倫を根拠づけるものとして要請されるのである。
◇これは、私が学部の日本思想史(仏教)のゼミに出ていた際に議論されていたように、(死者の)魂は実在しないが、(弔う側の)私たちの思念の対象として意味を持つ、ということである。私は、その時、修士論文で、鎌田柳泓の「理学」に即してそのことを考えていたわけだが、学部生(確か西日本の真宗の寺の娘さんだったが)が全く同じ趣旨で発言していたのを感慨深く聞いていた覚えがある。

ポストモダン化した社会における「魂」と「自由」

◇しかし、このポストモダン化した社会において、このような「たまきはるいのち」の観念を持ち出すことに何の意味があるのだろうか。私は、この「たまきはるいのち」を奪うものへの抵抗を「自由論」として書こうとしていた。そして、人々の「自由」を基礎づけるためには、まず個々の人間にとって「幸福」が追求されるべきだという価値へのコミットメントが前提とされる。
(この点、宮台真司『日本の難点』(幻冬舎新書)「「自分だけ幸せならそれでいい」のか」*2に明快に論じられている。)
◇このような人間の「尊厳性・尊貴性」を示す言葉として、「(宗教的な)永遠とも思えるがごとき命」を採用したわけである(Bon Joviが1992年に歌っていたところで言えば、「正にいま、必要なものは…たましいだ」I Believeアルバム『Keep the Faith』(Universal)*3)ということになる)。
◇この方針にはさらに、「永遠の生」といった宗教的観念がキリスト教社会の専売特許ではない、という点を強調する意図が含まれている。当ブログで、安藤礼二氏の一連の折口信夫井筒俊彦論(「アジア的一神教」)に着目してきたのもそのことによるのだが、ユダヤ教キリスト教イスラーム的な、契約を軸とした「超越的一神教に対して、アジアの「多神教」があるのではなく、むしろ多即一の共感を軸とした「包摂的一神教があると捉えれば、アジアの思想史の面目は一新されるのではないかと考えている。
◇特に、中近世の仏教=儒教思想においては「一心=一気=一理」がその枢要な関心事であり続けたといってよい。これは、「ありとあらゆるものすべて」としての<世界>が、それを超越した一者の一撃によって創造されるのではなく、いみじくも仏陀が明らかにしたように、無始無終の「空性」(未規定性)のままに光明に満ちた崇高性(例えば「大日如来(ヴァイローチャナ)」として表象されるような)を獲得する仕方を意味している。いわば、社会の底を支える「一心」(非日常的な力)の設定であり、それは近世においては、物質(唯物論)的には「一気」と表現され、観念(唯心論)的には「一理」と表現される。
(このあたりの議論については、宮台真司『サイファ』(ちくま文庫)『絶望 断念 福音 映画』(メディアファクトリー)『<世界>はそもそもデタラメである』(メディアファクトリー)*4の系列の議論・用語系を参照していただきたい。残念ながら、安藤氏や宮台氏以外のアカデミックな研究で、この分野の思想史を包括的に議論したものは思いつかない。)
◇このようにして、アジア的な宗教伝統のリソースによりながら「自由」を論ずることができるはずだ、というのが私の年来の関心事である。そもそも、私は石門心学丸山眞男による全否定)→ベラー→パーソンズという異常に迂回的なルートを辿って、宮台真司社会学の議論に接近したわけである。これについても、宮台真司『日本の難点』「日本人は宗教についての基本的理解がないか」において、むしろこのような問題が生じたのは、昭和の敗戦後だと指摘しているのに完全に同意したい。
「アジア思想史」という大々問題 (基本文献紹介つき) - ピョートル4世の<孫の手>雑評
文芸評論家・安藤礼二氏の近現代日本思想史での大活躍(&「日本思想史」「アカデミズム」への心からの毒づき) - ピョートル4世の<孫の手>雑評
◇さて、ようやく当ブログの「自由論」と「アジア思想史」の議論を架橋することができたようだ(あくまで簡単な梗概程度だとしても)。次に、このようないわば「魂の自由論」を前提とした上での、現在の政治状況について、私の所感を書き付けておく。

2009.8.30「政権選択」選挙に際しての「自由論」

◇当ブログでは、2007年参議院選挙のまとめ以降、政治についての時事評論を一切書いてこなかったので、少し振り返ってみる。
安倍政権については、現職閣僚の自殺者を出すなど、前代未聞の論外政権であったことに呆れ果てて、あえて書くことをしなかった。
福田政権社会民主主義への転回には世間並みに期待した(登場の際の高支持率の期待感は忘れがたい)ものの、政局運営について小沢民主党への擦り寄り以外の展望がないことに失望した。ただし、消費者庁設置やクラスター爆弾禁止条約へ逸早く賛成するなどの功績は評価する*5天皇・皇后両陛下のこの7月のカナダ訪問の主席随員に選ばれたのは伊達ではなかろう。自分で「臣」とか抜かしている人間よりよほど信頼されるということだ。
麻生政権については、世界不況対策にとりあえず大規模な財政出動をしたことは適切だったと考えるが、補正予算の時代錯誤的な無駄遣い・借金漬けの内容についてはあまりに粗忽で、90年代に顕わになった自民党政治の限界とその後の小泉改革の意義を全く認識していないという点で、国民の多くの支持が離れたゆえんである。
◇私は、年来の民主党支持者であるがゆえに、2005年「郵政選挙」前後には、はっきりと小泉政権新自由主義的改革(というよりは、その自民党をぶっ壊す」路線と、冷徹なセンスに基づく政局・国際情勢への突破力)への支持を表明していた。特に、安倍・麻生の両政権(「偽政権」と称したい気分に駆られるが)については、小泉改革を逆行させ、「自民党をぶっ壊す」路線を逆説的に遂行したという点で高く評価している。
9.11総選挙と「その後」に向けて - ピョートル4世の<孫の手>雑評
7.29参議院選挙に想うこと - ピョートル4世の<孫の手>雑評
「靖国問題」補足から、「小泉首相」観・国際情勢観の問題へ - ピョートル4世の<孫の手>雑評
◇私は、以前に書いたように、政治スケール上では保守左派を自任していて、バカ保守とは一線を画しつつ、ナショナリスティク(というよりパトリオティク)な情熱とリアリスティクな政局・外交感覚と社会的な再配分を重視してきた。
(「「日本版ポリティカルコンパス」結果=保守左派 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」参照。)
毎日新聞の「えらぼーと」(ボートマッチ=政党相性判断)の今回の結果は以下のとおり。「政治 - 毎日新聞」。
自民党との一致度:45%
憲法61%、政治のあり方41%、国の制度48%、経済・財政44%、くらし79%、外交・安全保障28%)
民主党との一致度:51%
憲法15%、政治のあり方72%、国の制度82%、経済・財政32%、くらし50%、外交・安全保障33%)
◇これを見ると、私と民主党との一致点は、政治と国の制度の改革志向であり、経済・財政政策には疑問があり、外交・安全保障でもそれほど一致していない、という点が確認できた。
(ただし、このえらぼーとの質問は、片山善博ら3名の監修を受けた1つ1つが実に本質的なものであり、なかなか1肢を選択するのが難しいのだが、今回はやや無理をして答えている。)
◇福田政権誕生時の期待と同様に、新自由主義の行き過ぎに対して、社会民主主義的な再配分政策の必要性が認識されているのは、多くの人が納得するだろう。その上で、自民党民主党の違いは何かといえば、宮台真司が言うように、自民党既得権益ベース(旧来の利益団体を通じた)の再分配、民主党=家計への直接の再分配」という点にあるだろう。
宮台真司の今回の選挙についての文章では、下記を参照。ちなみに次女ご誕生とのこと。私淑の立場ながら、おめでとうございます。)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=767
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=768
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=769
◇現在の社会情勢、つまり生活上の急迫度から言って、再分配の「直接性」は切実な問題である。自由主義は、「個人が普通に努力すればそこそこ生きていける」ことがベースになるが、昨今のように社会の「底が抜けた」状態への手当ては喫緊の課題であると言わなければならない。
◇解散後の情勢では、40日間の間延び戦術が一定程度効果を挙げて、与党側が当初の上ずった印象を押さえることに成功しつつあるといえる。また、自民党候補者・後援会の地に足の着いた活動が一定程度機能しているのを肌で感じることができる。小選挙区制でドラスティックな結果が出やすいとはいえ、各種メディアが予測したような劇的な議席変動が起こるのかどうかには、私は懐疑的である(特に、『週刊現代』の小規模なネットアンケートをそのまま選挙結果に当てはめた記事などは、記事中でその限界に触れているとしても、「アナウンス効果」に無自覚な、あまりに杜撰な出し方だ。「【5:世論調査と選挙結果―「アナウンス効果」はどれだけあるか】 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」を参照)。
(「郵政選挙」のような劇的な結果にはならないと予想する、下記の雪斎氏のエントリ参照。)
「政権交代」へのハードル: 雪斎の随想録
「政権交代」の四パターン: 雪斎の随想録
◇今回の「政権選択」選挙では、地方レベル・各種職能団体レベルでも後半に自民党離れが起きているが、個人的には間延び戦術によって投票率が下がり、中途半端な選挙結果と弱体政権ないし政界再編政局となり、再び政治が停滞に落ちることを最も危惧している。もっとも「議席数が多い=強力政権」とも限らないし、連立政権(民主党参議院議席が110/定数242のため、どのみち連立は必要である)がどれだけ円滑に機能するかは予想がつかない(というか、多少の混乱は織込み済みだろうか)。
◇いずれにしても、今後の日本の岐路になる選挙であることは間違いなく、どこに投票するにしても、多くの人が投票所に足を運んで意思を表明してほしいと思っている(すでに今日から期日前投票が可能だ。ただし、裁判官国民審査は23日から)。
(なお、国民審査の制度欠陥については、下記を参照。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=772」)

*1:ひらがなでよめばわかる日本語 (新潮文庫)

*2:日本の難点 (幻冬舎新書)

*3:Keep the Faith

*4:サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル (ちくま文庫) 絶望・断念・福音・映画―「社会」から「世界」への架け橋(オン・ザ・ブリッジ) (ダ・ヴィンチブックス) 「世界」はそもそもデタラメである (ダヴィンチブックス)

*5:福田元首相の「鶴の一声」の評価は、クラスター爆弾の防衛力を重視する観点からは全く逆になるが。「・クラスター爆弾禁止条約批准へ ~福田元首相の罪~ | アジアの真実」など参照。