【1】第18回定期演奏会(2011年2月20日)の感想

アニメ映画「司祭とその召使いバルダの物語」の音楽Op36より9曲(1934-35)

◆この曲は、CD等で聴いておらず、聴く前は単に「コミカルな曲」といったイメージで捉えていた(油断していた)。しかし! 開演時の拍手後、間を置かず鋭く指揮棒が振られると、出だしの数秒で「そうか、歌劇『鼻』や『マクベス夫人』に連なるモダニズム期の作品か!」と、その重要性を再認識させられた。トーマス・ザンデルリンクによる全曲盤は見事に買い損ねてしまったが、リンク先で試聴できる。
1.序曲
弱音器付トランペット、トロンボーンの奇妙な音色。若きショスタコーヴィチの先鋭的な感覚が活かされた作品だと冒頭から唸らされた。パンフレット解説でも触れられているが、『鼻』や交響曲第2番・第3番などと並び、プラウダ批判前の最後の作品の1つなのである。
2.バザー(市場)〔導入〕
金管木管中心の斬新さを狙った曲調で市場の賑やかさが描かれる。
3.バルダの初仕事
ここで少し変わって、平易な明るい曲調に。その雰囲気はさながらウィンナ・ワルツ。第12回定期で「劇伴オーケストラのための組曲」を聴いたとき以来、ダスビの小品に見せる巧さに感心していた。「J.シュトラウス作品などをやらせても効果的だろうから、そういうのも聞いてみたい」と思ったが、その実現は…思いの外早かった!(後述)
4.メリーゴーランド(その2)
木管中心のうとうとまどろんでしまいそうな曲。
5.悪魔の鼻歌
ソプラニーノサックスとユーフォニウムだろうか、独特の音色が印象的な曲。
6.鐘つきのダンス
「鐘付きのダンス」という珍しい作例かも知れない。ユーモラスな感じだが、実に大胆に誇張された表現。
7.反動主義者たちの行進
オケの強奏と木琴・ピツィカートの対比が、ダスビならでは見事な演奏だった。
8.デコピン3発
トランペットのシグナル的な音型(後の交響曲第7番を思わせる?)が興味深い。
9. バルダのギャロップ
快速な曲調をスリリングに表現するダスビの合奏力を改めて確認。そして、これらの曲(アニメ映画の場面に付けられた小品)を、一連の組曲としてまとめ上げる解釈力に(いつもながら)脱帽だった。

室内交響曲Op110a(1960)

◆曲目はよく知られているように、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第8番を、ロシア出身のヴィオラ奏者・指揮者だったルドルフ・バルシャイ(1924-2010)が弦楽合奏に編曲したもの。ショスタコーヴィチの15曲の弦楽四重奏曲のうち、この第8番はショスタコーヴィチ自身によるショスタコーヴィチへのレクィエムとも言えるような重要作品である。
◆そして、今回の演奏はダスビ史上最高の名演の1つに数えられるのではないか。技術的には「ダスビの弦楽がついにこの域に到達したか」との感慨が深い。むろん単に技術面だけでなく、この曲にはダスビの歴史を刻んできたショスタコーヴィチ自身の足取りがまとめられているという事情もある。ダスビの定期演奏会では、第9回までに第5、14、15番以外の交響曲を一巡し、第10回から再演を含め交響曲第7、1、5、8番と辿り、そして、ヴァイオリン協奏曲第1番と交響曲第15番を一つの頂点に、交響曲第11番、森の歌と第10番、チェロ協奏曲第2番と辿り、どちらかといえば中後期の作品群を取り上げてきた。それらを貫く主題として、DSCH音型に示される作曲者自身と、過剰な暴力的表現で描かれる体制の圧力との相克がある。それを最も凝縮して描いたのが弦楽四重奏曲第8番という作品であり、一方では近年の演奏技術の向上の歴史と相まって、この室内交響曲の演奏が(弦楽だけの演奏にもかかわらず)ダスビの集大成を示すの記念碑的な演奏になっていたと思う。
◆そしてまた特筆すべきは、パンフレット解説のショスタコーヴィチの引用出典を参照しながら聴いて、この曲の重みを初めて理解することができた、ということ。この曲が自作・多作の引用を多く含むことはよく語られるが、なかなか詳細な解説にお目にかからなかった。今回のパンフレットは演奏を聴きながら参照するのに最適な、簡潔で要を得たもので有難かった。以下の感想も、適宜解説を引用させていただきながら書く(そうしないと表現できないのでご容赦いただきたい)。
第1楽章(ラルゴ):ほの暗いDSCH(レミ♭ドシ)のフーガから始まり、自身の交響曲第1番の残骸のような回想と、チャイコフスキーの悲愴の変形が綴られる。
◆〜第2楽章(アレグロモルト:急変して、鞭打つような鋭い音型による格闘の音楽へ。自由をレミドシと押さえつけようとする圧力、その合間に高らかにピアノ三重奏曲第2番からの「ユダヤの主題」が鳴り響く。演奏は極めて集中度が高く、弦楽全体が一本の鞭のようにしなる様は、弦楽四重奏での表現以上に緊密なものだった。
◆〜第3楽章(アレグレット):間奏的なワルツ楽章として始まるが、次第に曲想はもつれていき、特徴的なチェロ協奏曲第1番の冒頭主題(映画音楽『若き親衛隊』より「英雄の死」)から美しいチェロのソロ、そして終結部では合奏から浮かび上がったソロヴァイオリンがこの世のものならぬ音色で「怒りの日」(当然死の暗示だ)を奏でる。続く第4楽章にかけてのこの部分、バルシャイ盤では注意して聞いてもはっきりしないのだが、今回の演奏ではヴァイオリンのソロが一瞬長く残って浮き出ることで見事な場面転換をしていたと思う。
◆〜第4楽章(ラルゴ):解説にあるとおり「秘密警察によるノックを連想させる不気味な3音の連打」が繰り返されて始まる。「英雄の死」の変形と長く続く「怒りの日」。その後、革命歌「重き鎖につながれて」の引用。このあたりの重く沈んだ、しかし静謐な弦楽の表現は、交響曲第11番の「王宮前広場」や第8番のパッサカリアを思い起こさせる。客席もその雰囲気に呑まれたようになり、すすり泣く声が聞こえたように思ったが、私もまた同じ思いで引き込まれて聴いていた。そして、歌劇『ムツェンスクのマクベス夫人』よりカテリーナの「セリョージャ、愛しい人よ」の引用。元の歌詞は「やっと会えたわね、セリョージャ」という恋人への(裏切られる直前の)短い呼びかけだが、死の雰囲気と隣り合わせの危険な美しさが漂う。最後にレミドシ、ドミトリー・ショスタコーヴィチの名が呟かれ、そのまま第5楽章に入る。
◆〜第5楽章(ラルゴ):第1楽章と同様に、レミドシがフーガとして繰り返されるが、『ムツェンスクのマクベス夫人』冒頭の不眠のモティーフ(レードーシドーソー)が重ねられる。実際はそれほど長くないエピローグ的な楽章なのだが、単調とも思える繰り返しが、ショスタコーヴィチの心情を余すところなく示して、永遠とも思える長さの中で静かに消えていく…。
◆以上のような、引用による暗示に満ちた構成や当時のショスタコーヴィチの状況(共産党入党の強制)やダスビの演奏会の歴史によって、私自身はダスビの一つの集大成としてこの演奏を聴いた。しかし、それを置いたとしても、全曲を通して緊迫感に満ちた圧倒的な表現だったと思う。
◆この曲の表向きの表題は、〜ファシズムと戦争の犠牲者に捧げる〜となっており、そこから思いついたのか、未記入だったアンケート用紙の「本日の川柳・短歌で」欄に、以下の歌が書いてあった。震災の前か後か、書いたことすら忘れていたが、今偶然にも紙が出てきたので挙げておく。書いた時もなぜかふっと湧き上がってきて書き留めておいたと思う(歌なんて詠んだこともなく、文法も怪しいが)。

辿り越し道の辺に伏す屍ゆ我が名を呼べと叫びおりつ

交響曲第12番「1917年」Op112(1961)

◆この曲の実演に接するのは4回目(ダスビ1回、他アマオケ1回、ロストロポーヴィチ指揮1回)。高校時代(もう20年以上前か…)からはまっていた曲で、CDでは優に100回以上聴いていると思うので、ショスタコーヴィチのみならず、全オーケストラ曲の中でも聴いた回数が最多かもしれない。主に聞いていたCDは、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルの1984年録音(ムラヴィンスキー最後の録音とも言われる)。他のCDも10種類くらいは持っていると思うが、この演奏の強烈な印象からはどうしても離れられない。
◆前半のバルダと室内交響曲で満腹になってしまったこともあり、今回の第12番については、割合リラックスして聴いていた(感想も十分書けておりません…)。演奏は、ダスビにとっても一八番と言っていいと思うが、もちろん風格と激しさを両立した素晴らしいものだった。
◆無理なく爆裂していく(これは凄いことなのだが)第1楽章、砲撃そのものの第3楽章や、第4楽章の「強制された歓喜」的なフィナーレもさることながら、今回は第2楽章の美しさが心に残った。激しさを求めて聞いていた時分は、飛ばして聴いたこともあったが、レーニンが身をひそめたというラズリフ村の情景が、弦楽や木管中心に微かな切迫感を持ちながら実に美しく描かれていることに気づかされた(ヴィオラ、フルート、クラリネットファゴット等が見事に歌い継いでいた)。こうした落ち着いた楽想をたっぷりと聴かせるあたりも、近年のダスビの充実度を示すものではないかと思う。
◆この機会に、第8回定期演奏会(2001年)の第12番をCDで聴き直した。第1楽章前半こそやや力みが出てミスが多いが、全体として相当の充実度。音楽に独特の弾みがある。第2楽章の表現も深い。第4楽章は「強制された歓喜」というよりも素直に前進する力が満ちており、ゆったりと風格ある終結を迎える。無理のない解釈で非常に好ましい。この時点でも相当充実した演奏だったと思う。しかし、終演後の熱狂的なブラヴォーがないのが最近と違うところ(もっとも今が叫び過ぎなのか? 私も昔はアマオケ演奏会で叫ぶのはちょっと…と思っていた。しかし、良いものは良いのである)。今回再演のフィナーレもじっくり聴きなおしたいものだが…。

アンコール:J.シュトラウスショスタコーヴィチポルカ「観光」

◆繰り返すが、第8回アンコールのタヒチ・トロットとか、劇伴オーケストラのための組曲とか、ダスビの小品演奏には本当に人間味が溢れていて、「他のオーケストラでもこんな風に、人を幸せにするような音楽をもっと奏でればいいのに!」と思ってしまうほどである。ここにこうした作品を聴けるのは実に嬉しいことだった。1年に1回、こうしたコンサートに参加できるのは楽しみなものである。ぜひこうした機会を多くの人に持ってほしいと思う(もちろん他のアマオケ・プロオケでも、素晴らしい演奏に数多く接してきています)。
◆今年の演奏会は、残念ながら業務都合で行くことができない。3月11日の復興へのシグナルとなるべき第7番を聴くことができないのは痛恨事である。さらに、上記のバルダ、室内交響曲、第12番のCDも少なくとも1年間お預けになるということで、これまた辛いところである。さて、約6年半務めてきた業務にもまもなくけりがつくが、さて1年後はどうなっていることやら…。
◆ダスビはこれからも、さらに強力な演奏を聴かせてくれるのではないかと思う。例えば、いくつか音源にも取り上げられている交響曲の断章(第4番・第9番関係)とマクベス夫人のパッサカリアの再演とか…と、ここでリクエストしてみるのだった。