【2】「震災後の音楽」について

震災発生後の心情

◆上記演奏会の感想を書きかけのまま、3月11日の金曜日にそれは来た。勤務先の都内のビルの6階にいたが、バブル期の建築のせいなのか(?)、近隣のビルより多少揺れが強かったらしく、女性が叫び声をあげるなど恐怖を感じた。その中で1人冷静に腰かけたままだったのは、「未明の暗闇の中で、揺れはもっと強かった」という阪神大震災経験者だけだった。先月、気象庁の調査で、都内のビルの20階以上では、震度6強を超える揺れを感じたという結果が公表されたが、私たちがいたビルも、壁にひびが入ったりして危険だというのでいったん総員退避となった。この時点で、私の危機意識はやや他の人より高まったかもしれない
◆3時間ほど歩いて、埼玉県(東京から川1本渡るだけのところなので、東京西部よりはよほど帰宅しやすかった)の自宅に帰りついた(この時点ですでに付近のコンビニの食料品はかなり乏しかった)が、今度は自分の部屋のドアが開かない。天井まで丈のある本棚4本が、過積載気味だったこともあり、横板がぐにゃぐにゃになって崩壊して、ドア周りを本とCDが埋め尽くしていたためである。結局、業者を呼んで窓ガラスを割って部屋に入るのに2日かかったが、もし部屋の中にいたら、私は埼玉県唯一の震災犠牲者になっていたかもしれない。(本棚の残骸の鉄板を未だに家の中に放置していて、家人に迷惑をかけているのはともかく…って、本当に恥だな。申し訳ない)。
◆関連して、私が敬愛する毎日新聞にも発生後1週間ぐらいして、東北出身の文化人による「東京では東北の支援に回すべき物資を買い占めるエゴイズムが横行した」といった類のとんでもない論調によるコメントが何度か掲載されたのだが、「当事者への想像力の欠如」を言い募る方に「当事者への想像力」が欠けているという嘆かわしい事例であった。私は激怒・憤慨して、ツイートでも某氏に反論したほどである。
◆さて、その一方で、発生翌日には「千葉の工場火災の影響で毒性の強い雨が降る」というチェーンメールが妻の携帯に回ってきた。私はその時に「こんなのはありえない。一番の問題は原発だ!」と言下に否定した。その土曜日の夜には自宅の換気口をすべて目張りした。日曜日に部屋のガラスを割るときも、放射能汚染が気になったが、先に終わらせてよかったという感覚だった。月曜日には一応出社したのだが、原発の状況次第では、職務を放棄してでも、子供を連れて当てもなくとにかく西日本に脱出しようと考えていたので、周囲の人が案外普通に出社していたので、むしろ驚いた。
◆私の情報源としては、枝野官房長官の会見と、毎日新聞以外は、多少ネットのツイートを見たぐらいだが、後から「政府が事態を隠していた」というような一部マスコミの報道には「あの事態に、本気で安全を信じ込んでいたのか?」と驚愕せざるを得なかった。ついでに、菅直人政権への擁護論は、例えば、【最悪シナリオを封印】菅政権「なかったことに」大量放出1年と想定 民間原発事故調が追及共同通信)の記事へのコメントを参照(私も付けておいたが、擁護論はそれなりに多い)。
◆さらに、付言しておくと、原発事故の責任は東電経営陣にあり、現今進んでいる東電の解体・再生は、東電内部の若手層を起用しながら強力に推進すべきであると考える。一方で、仄聞する東電の一般社員に対する差別事案については、全く恥知らずの人道に悖る鬼畜の所業であるので、私個人はそうした行為を行う者を徹底的に糾弾したいと思う
◆また、放射能汚染についての子供を持つ親の不安については、私も上記のとおり理解を持つが、現今においては、政府指定の区域を除いた場合に直接の脅威があるとは全く思えない。したがって、この面でも、一部西日本地域について報じられた、被災地の物品についての持ち込み忌避という差別行為(昨年夏に被災地製造の花火を打ち上げさせないといったような)はもちろんのこと、地元でのがれき処理に反対する行為についても、人道的な見地からの不安の克服を勧告したいところである(はっきり言えば、この手の心配は昨年3月12日時点ですべきことだ)。
◆震災後に感じたことのうち、私が言っておきたかったことは、だいたい以上のようなことである。発生後、1ヵ月くらいは何か必死な気分でいて、その後にようやく津波犠牲者についての報道を見て、ふっとその悲しみを受け容れることができたことを憶えている。津波被災地や原発事故被災地の方々の受難に比べれば何ほどのものでもないとはいえ、そうした心情で暮らしていた一人の記録としておく。

震災後の音楽経

◆私のような、大した被害を受けることのなかった人間にすら、この大震災は上記のように大きな影響を及ぼしていた。そうした心のこわばりを洗い流してくれたのは、やはり音楽だった。とはいえ、普段は年中音楽漬けになっていないと気が済まないこの私が、震災後に普段通り音楽を聴きだしたのは、さすがに3月24日ごろになってからである。
◆震災後も少しずつ、アマオケ等の演奏会に行くようになったが、その中で印象に残るもの(1901)を少しだけ書いておきたい。まず、5月3日のアウローラ管弦楽団第5回定期演奏会(田部井剛指揮)。この日のメインのスクリャービン交響曲第2番は、第1・2楽章こそ複雑怪奇な難物だが、第3〜5楽章は、カリンニコフを思わせる青春のロシア交響曲になっていて、地震後落ち着かずにいた気持ちを洗い流される気持ちがしたと記憶している。
◆アウローラ管弦楽団は、オケ定期の合間に小規模な室内演奏会を開いているが、6月11日の第4回室内演奏会(長田雅人指揮)は特筆すべきものだった。「ストラヴィンスキーと管楽オーケストラ」をテーマに4曲が演奏されたが、私の経験の中でも最も強烈な印象を受けた演奏会の1つである。ダスビ団長氏ともうお一人による「新しい劇場のためのファンファーレ」(1964)から開始して、ストラヴィンスキー新古典主義時代の「管楽器のための八重奏曲」(1922-23)、「管楽器のサンフォニー(私の試訳では「管楽による交響」)」(1920)、「ミサ曲」(1947)が演奏された。
◆3曲目のSymphonies of Wind Instrumentsは、高校時代にNHK−FMで「管楽器のための交響曲集」と直訳とも何とも言えない訳で紹介されていて、要するに(ソナタ形式交響曲ではなく)響きあう音の集まりをイメージしているのだから、単に「交響」が適訳ではないかと思った懐かしい曲。
◆4曲目のミサ曲は、ストラヴィンスキーの自作自演録音で聴いていたが、この演奏では、8人による混声合唱木管五重奏+金管五重奏で、その特異な編成をフルに活かして、弱音器付きのトランペットやオーボエの印象的な響きを中心にストラヴィンスキーが考えたアルカイックな響きを十全に表現していたと思う。後で定評あるバーンスタインの録音も聴いたのだが、自演よりもバーンスタインよりもこの日の演奏の方が名演だったと思う。アルヴォ・ペルトの響きを30年ほど先取りした、中世的な、宇宙的な広がりを感じさせる音楽で、宗教以上の祈りというものがありうるのではないか、と感じることができたのである。
◆そして、ダスビとは直接関係ないが、昨年12月23日のピアニスト千尋さんのリスト編曲ピアノソロ版ベートーヴェン交響曲連続演奏会の初回(第9番、つい先日別収録のCDが到着。こちらも素晴らしい演奏・録音でした!)において、アンコールに丹さん編曲のアメージング・グレースが演奏された。当日は仙台から聴きに来た方もおられたとのことで、曲は録音でも聴いていたのだが、聴いているうちに自然と(自分の感情とは無関係に、と言っていいくらい自然に)涙がこぼれた。今までも演奏会の音楽で涙ぐんだことは何度もあるのだが、どちらかというと曲(の意味)に思い入れがあって、例えばチャイコフスキーショスタコーヴィチの音楽に寄り添って、その文脈に感情移入する感じだったのだが、この時は音楽の方からすっと入ってこられた感覚だった。
◆その他、ニュース等でも佐渡裕が被災地を巡ったり、津波被災ピアノを復活させたり、こうした時にこそ音楽が人々に力を与える、その姿が多く報じられた。こうした素晴らしい芸術・文化を持つ私たちの社会は、その叡智を集めれば必ずや優れた復興を遂げるものと思う。私もそうした動きの一助になれればと願いつつ。