オーケストラ・ダスビダーニャ第20回定期演奏会の感想〜ショスタコーヴィチ交響曲第4番について4ヵ月近く考えたこと〜
Shostakovich Symphony No.4 - Trickster,Tyranny,Mystique,Mahler.
An Essay on Orchestra "Do Svidanya" #20 Concert
◆私にとって13回目のダスビ(オーケストラ・ダスビダーニャ - Wikipedia)定期に臨席したのが3月3日。昨年の3.11後ちょうど1年後の定期演奏会は仕事都合で参加できなかった(当日夜にこちらの記事を読んで、少しく渇きを癒すことができた。オーケストラ・ダスビダーニャ ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」 & 伊福部昭 日本組曲 3/11 ①: アリスの音楽館)ので、2年ぶりの定期だった。会場はすみだトリフォニーの大ホール、いつものとおり3階バルコニー席、今年は右側で聴いた。
◆3.11を挟んで2年ぶりのダスビ、しかもメインが第4番だったということで、自分なりに消化するのに3ヵ月近くかかり、ようやくオンラインアンケートに回答。それまでに、ショスタコーヴィチの交響曲全集約2周(第4番だけは20回近く)とミケランジェロ組曲、弦楽四重奏曲全集といくつかの室内楽曲・ピアノ曲、ムツェンスクのマクベス夫人を手元の音源で聴いて、ようやく第4番について、自分なりの位置づけがしっくり定まった気がする。
5つのバレエ組曲より抜粋(7曲)
◆ショスタコーヴィチのバレエ音楽は主に3作あって、『黄金時代』(1929-30)、『ボルト』(1930-31)、『明るい小川』(1934-35)であるが、いずれもチャイコフスキーの3大バレエのような舞台的成功にはほぼ無縁という残念な結果に終わっている。しかし、音楽的には、最初の『黄金時代』が初期モダニズム時代の力作であり、後の大作交響曲に使われていくような表現が確立されつつある作品で実に興味深く、全曲を聴く価値があるだろう。
◆続く『ボルト』も、やや大衆化されているものの、独特のメカニカルな響きが特徴の音楽で、親しみやすいナンバーも多い。最後の『明るい小川』は前作『ボルト』からの流用曲も多く、大衆路線を突き詰めて「プラウダ批判」で低俗だと指摘されてしまったということで、ショスタコーヴィチ本人にとってもやや不本意な作品だったかもしれない。ただし、個々の曲を見た場合には、ロシアの愛らしい、楽しげな楽曲作りの伝統をショスタコ―ヴィチ独特の機知で再構築したような珠玉の小品も多い。
◆ということで、ショスタコーヴィチの友人アトヴミャーンがこれらのバレエ作品から適宜抜粋・編曲してまとめた(第3番まではショスタコーヴィチ本人も選曲に関わった由)のが、バレエ組曲第1〜5番である(うち第5番は『ボルト』組曲)。なお、演奏会プログラムにも記載されているが、メインの交響曲第4番スコアの復元(ナチスドイツのレニングラード包囲戦の最中に散逸)でもアトヴミャーンの役割が大きかったとのこと。
◆今回のダスビの演奏は、5曲のバレエ組曲から7曲を独自に抜粋。4曲目のエレジーを中央に配したアーチ型で、原曲としては大まかに『明るい小川』〜『人間喜劇』〜『ボルト』が並んでいるという構成である(最後の3曲は続けて演奏)。しかし、1曲2〜3分の小曲が並んでいるということで、以前から書いてきた「劇伴オーケストラの組曲」以来のダスビの組曲構成力(【1】第18回定期演奏会(2011年2月20日)の感想 - ピョートル4世の<孫の手>雑評)に比べると割合あっさりしており、ややあっけなく終わってしまった感があった。大向こう受けしやすく壮大な表現を含む組曲2番第2曲のアダージオ(長い独奏チェロ付)が入るとより親しみやすい演奏会になった気もするが、今回は難曲第4番に集中する方針上やむをえないかもしれない。
◆また、第4番の解釈にも関わるが、その巨大な交響曲の中のダンス的なパッセージの重要性に気づかせる巧みな選曲でもあるのが、さすがダスビである。
1.ワルツ
(組曲2番第1曲。原曲:『明るい小川』第3幕)
弦楽、トランペット、打楽器による軽快な導入。弱音での細かい動きと強奏の対比がいかにもショスタコーヴィチらしい(プログラムにいうところの「グロテスク趣味」)。トランペットの歌い方といい、ダスビにうってつけの曲での開幕だった。
2.ダンス(ピツィカート)
(組曲1番第2曲。原曲:『明るい小川』第3幕)
弦のピツィカートを中心に、ホルン、フルートやファゴットの表情豊かな演奏が続く。途中から加速して木琴がチャカチャカ鳴るのが実に可愛らしい。
3.ダンス
(組曲3番第3曲。原曲:『明るい小川』第2幕など)
スタートダッシュで、はいスタート!という明るい曲。リズムの刻みが効いていて、金管、ピアノが活躍する。そして、チャラチャララ〜と軽いメロディーから、金管の入った盛大な響きが入ってきたかと思うと、再びチャララ〜と軽快に終わる。思わず体が動き出す、文字どおりのダンス音楽。
4.エレジー
(組曲3番第4曲。原曲:舞台音楽『人間喜劇』)
ハープ伴奏にオーボエソロがゆったりと歌う。ホルンと弦楽に、チャイコフスキー風の表現が見られる寛いだ感じの曲。温かみのある表現が人間ショスタコーヴィチに寄り添うかのよう。
5.ギャロップ
(組曲2番第6曲。原曲:『明るい小川』第2幕・『ボルト』終曲)
独特の勢いある楽想でまたスタート! 木琴連打、トランペットの軽快な響き、小太鼓の引き締まった表現など、ショスタコーヴィチにしか書けないノリの良いギャロップを十全に再現していく。
〜
6.荷馬車引きの踊り
(組曲5番第3曲。原曲:『ボルト』第3幕)
トロンボーン、ティンパニ、低弦刻みが大胆に入ってくる一度聴いたら忘れられない強烈な曲。一方で返しは、フルート、クラリネット、鉄琴がキラキラと歌って可愛らしい。トロンボーン、ホルンが吠えたり、オケが跳ねたり、振幅の大きい表現がいつもながら見事。
〜
7.スケルツォ
(組曲4番第3曲。原曲:『ボルト』第3幕ほか)
冒頭から軽やかな流れが特徴的。組曲4番は未聴だったので、実質初めて聴いたわけだが、親しみやすい。弦楽、トランペットから木管主体のオリエンタルなパッセージに入った後、ストレッタというのか、ティンパニがリズムを刻んで、快速に駆け抜けた。
交響曲第4番Op.43(1936)
◆第4番については、長らく「難解で、悲劇的で、前衛的な曲」のイメージで聴いてきた(録音では100回以上聴いてきたと思う)。しかし、この曲の全体構成を含めて自分なりのイメージは出来上がらないまま、単に力感ある大作交響曲としてしか聴けていなかった気がする。
◆実演ではダスビ1回目の2000年の演奏を会場で聴いていたが、CDで聴きなおすと、この時も記憶していた以上に非常に風格ある演奏だった(ホールが崩れ落ちてくるような錯覚があって、少し不安定なところがあったような気がしていたが、実際は相当精緻な演奏だった)。しかし、今回の演奏はさらに精密さを増して、この巨大な曲を十全に表現した演奏だったと思う。ただ、今回も私自身の曲理解が中途半端だったせいで、非常に充実した演奏だったことを体感し、終演時には自然とブラヴォーの声を上げたものの、ジワっと沁み込んでくるこの曲の真髄を明確には理解できないまま終わった感があった。
◆そのため、最初に書いたように、CDでこの曲を中心にショスタコーヴィチ作品を聴き返すことになった(特にこの2か月ほどはほぼショスタコーヴィチしか聴いていない状態だったが、それで飽きが来ないのはこの作曲家の充実度と多様性を証明している)。
◆その結果、ようやく第4番について、自分なりの理解に到達した。「難解で、悲劇的で、前衛的な曲」というイメージから、この曲が実際は作曲中に「プラウダ批判」(第16回オーケストラ・ダスビダーニャ定期演奏会の感想 - ピョートル4世の<孫の手>雑評)を挟みながら、それを正面突破しようした、闘争的な曲だったと今回捉えなおすことができた。
◆千葉潤『作曲家人と作品ショスタコーヴィチ』(p190)に引くGlikmanが伝えるjショスタコーヴィチ晩年の発言をそうした理解の手掛かりにすることができた。
「音楽の代わりの支離滅裂」の後、指導部が、私に懺悔して自分の罪を償うように、執拗に説得した。だが、私は断った。当時は、若さと肉体的な力が私に味方したのだ。懺悔の代わりに、私は交響曲第4番を書いた。
◆第3楽章の吹き上がるような高揚やダンス音楽はそう捉えると納得がいく。3楽章すべてが静かに終結するとはいえ、この曲は決して悲劇的な結末に収束する音楽ではない。
◆また、吉松隆氏がすでに1980年代に指摘していることだが、ショスタコーヴィチの全15曲の交響曲は鏡像的に配置されているという(http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/~data/BOOKS/Thesis/shostakoSQ.html)。オリジナルの記事がリンク先で読めるが、図Cの交響曲の鏡像配置は初出誌と比べて、中央部がいくらか修正されている。つまり、第1番と第15番、第2・3番と第13・14番の対称はそのままだが、第6番が標題交響曲から純器楽に移されており、それにより対称のバランスも変わっている。もっともその伝でいうならば、「レニングラード」と称される第7番も純器楽曲ではないかという疑問も残る。結果、吉松氏の鏡像配置はやや破綻したままとなっている。
◆ここで試案として、第4番の位置を1961年の初演時の第12番と第13番の間に移してみる。そうすると第5番と第4番、第7番と第11番、第8番と第10番の大作交響曲のカップリングができ、M字中央の頂点となる第9番の脇に、やや軽い第6番と第12番が並んで対応して、一応鏡像的配置を回復することができる。
◆実際には、この第4番は1936年に作曲されており、関連する断章も残されている(5つの断章Op.42と「アダージョ」)。この交響曲は、マーラーや新ウィーン学派からの流れを消化して、前衛的、実験的でかつ深刻な内容を持った作品として構想され始めた。しかし、そこに「プラウダ批判」が起こり、ショスタコーヴィチはスターリンら指導部からの批判に対する正面突破を図って、この交響曲に「闘争」の主題を持ち込んだ。
◆その意味で、この第4番は、正に裏返しの鏡像として生み出された第5番はもちろんのこと、「闘争」を主題とする点で、「戦時交響曲」である第7・8番、そして断章のみ残された「戦勝交響曲」としての幻の第9番や第12番での闘争場面に関係するとともに、暴力性とトリックスターとの相克という点で第10番(第6番も?)と、打楽器群のチャカポコによりチェロ協奏曲第2番(第17回オーケストラ・ダスビダーニャ定期演奏会の1年遅れの感想、または、ショスタコーヴィチ「チェロ協奏曲第2番」の本義について - ピョートル4世の<孫の手>雑評)と交響曲第15番と、フィナーレのチェレスタで第13番「バビ・ヤール」と「ミケランジェロ組曲」(鏡像的配置の特異点、実質上の交響曲第16番)ともつながる。また、「ミケランジェロ組曲」の自己の芸術観の率直な表出は、この第4番との対をなすことでよく理解することができるのではないかと思う。こうして第4番は、ショスタコーヴィチにとって、実質上の大作交響曲の第1番(アルファ)であり、1つの極点(オメガ)であったような作品だと言えるのではないかと思う。
◆今回スコアもさらっと見てみたのだが、これだけの大曲で複雑な構成を持ちながら、スコア上の表現は非常にシンプルである。目まぐるしく場面が転換する曲調で速度指示は多いものの、速度標語での区分はほとんどなく、楽器編成としてもそもそも巨大ではあるが、打楽器・管楽器を含めた咆哮と、弦楽中心の技巧的な進行、何か物憂げな木管の進行をひたすら繰り返すだけにも見える。
第1楽章 Allgro poco moderato (Presto)
第2楽章 Moderato con moto
第3楽章 Largo.Allegro
◆この曲の基調となる表現として、私には下記の4点が挙げられるのではないかと思う。
1.トリックスター性
これはダスビ演奏後に購入した、作曲者の息子M.ショスタコーヴィチ指揮による第4番録音を聴いて特に思うのだが、第1楽章冒頭の主題からアヴァンギャルド的な推進力よりも、軽さを持ったトリックスター的表現(木琴に象徴される)がこの曲の主調を示すのではないか。複雑な大曲であるが、全編に渡ってトリックスターの活躍が見られるのではないか、という点をここで強調しておきたい。「明るく」かつ「闘争的」=「正面突破」という見立てが、私の今回の理解の中核である。このトリックスターは、ティル・オイレンシュピーゲルでもあり、英雄でもあり、またステンカ・ラージンでもあるような、民衆とともにあり、時に権力を嘲り、時に民衆からも孤立するような性格の存在である。後年、交響曲第10番でレミドシ音型とともに縦横無尽に闊歩するキャラクターの先駆でもある(第16回オーケストラ・ダスビダーニャ定期演奏会の感想 - ピョートル4世の<孫の手>雑評)。
2.暴力性
第1楽章プレストの弦楽フーガもそうであるが、全編に渡り金管・打楽器の咆哮による激しい表現が散らばる。これも交響曲第10番の第2楽章の激しく機械的な音楽と通底する。
3.神秘性・悲劇性(悲愴)
一方で、この曲の色合いを複雑にしているのは、これも全編に繰り返される神秘的、悲劇的な色彩を持った静かで遅くて暗い音楽の挿入である(ハープ伴奏と低弦・金管など)。この部分は、後年の大交響曲ではそれほど繰り返されない色調ではないかと思う。スクリャービン、ミャスコフスキーとも共通するような神秘性である。後年の作品では、アダージョやパッサカリアでこうした雰囲気が描かれるが、それよりも闇が深く、不定形である。
4.マーラーと新ウィーン楽派
神秘性とも関連してくるが、マーラーやシェーンベルク、ウェーベルン、ベルクとの関連も著しい特徴である。第4番の作曲中、ショスタコーヴィチはマーラーの交響曲第7番のスコアをピアノの譜面台に載せていたというが、ピッコロクラリネットによる執拗ともいえるカッコウ動機の反復、音色旋律を思わせる表現、ベルクのピアノソナタとの主題類似など、この後、スターリン体制下では表立って表現できなくなるイディオムが盛り込まれている。
◆また、「プラウダ批判」との関連では、この曲のトリックスター性やダンス音楽はバレエ『明るい小川』の奇妙に捻じ曲げられた反復とも言える。一方、歌劇『ムツェンスクのマクベス夫人』との音楽的類似はあまり見られないように思われるが、強いて言えば、『マクベス夫人』第4幕の俗物セリョージャとソニェートカがカテリーナを騙そうとする場面のワルツからカテリーナの悲嘆と終幕といった流れは、この交響曲の第3楽章の構成と類似するかもしれない。
◆さて、このように私が捉えた第4番の位置づけの根拠は何か、それを今回のダスビ演奏の感想メモをもとに書いておきたい。当日のメモをしばらく放置した後、M.ショスタコーヴィチ盤、バルシャイ盤、ロストロポーヴィチ盤、ロジェストヴェンスキー盤(ウィーンフィル)、コンドラシン盤、ダスビの2000年盤などを繰り返し聴いて当日の感想としては薄まってしまっている点をご容赦いただきたい。
◆速度標語があまりにシンプルなせいもあってか、この曲の詳しい解説にネット上ではお目にかからないので、以下の文学チックな記述も多少の意味はあるかとも考える次第(スコアとあまり対照できていないので、楽器等の誤りもあるかと)。なお、練習番号ですべてを追い切れていないのと、演奏時間にばらつきが少ない曲ということもあり、M.ショスタコーヴィチ盤の大体の時間を目安として付記しておく。
第1楽章 アレグロ・ポコ・モデラート
(0分)
冒頭からトリックスター(ティル)が登場する(木琴)。いかにもトリックスター的な主題と、ティンパニ・金管が強く鳴り響く行進が交錯する。演奏は、弦の刻みが速く、強い推進力で突き進む。ホルン信号、そしてまた木琴が鳴り響く。正確無比な進行が見事。
(2分)
音楽は静まり、低弦・木管を中心に低回した表現がしばらく続く。
(4分)
シンバルが打ち鳴らされ、ホルン、ティンパニなど再び力感を強め、行進が再開される。
(5分)
木管とピツィカートでやや雰囲気が和らぐ。ピッコロクラリネットによるカッコウで友軍?マーラーが登場する。ティンパニ強打。弦とファゴットのもやもやした表現。
(6分)
マーラーの「悲劇的」第4楽章のハンマー前を思わせる雰囲気から、突然の大咆哮(カタストロフ)、そして静寂。
(7分)
ファゴット、コントラバス、ハープによる静謐な雰囲気の進行。ヴィオラ、チェロが緩やかに歌いだすと、第11番の「王宮前」の雰囲気が現出される。ヴァイオリン、ハープによる進行は第5番に受け継がれていく。ここではさらに、マーラーの第10番を思わせる神秘性が加わる。ハープのシグナルが鳴る中、ファゴットやヴァイオリン、フルート、オーボエが色を重ね、シェーンベルクやウェーベルンの音色旋律を思わせる進行。
(10分)
ホルンとクラリネットのカッコウ、弱音チューバ2本が鳴る。弦、トランペットがトリックスターを抑えた調子で再現。しばらくして1つのクライマクス。ホルンが咆哮し、チューバ、トロンボーン、ヴァイオリンが畳み掛け、再びマーラーのハンマー前、名状しがたい怒りとも悲しみともつかないものが吹き上がる。チューバやトロンボーンが蠢き、そして審判の日のラッパが鳴り響くかのような雰囲気が続く。
(13分)
ところが、そこに突然ティルが登場する。クラリネットダンス(トリックスター主題の変形)、ファゴット、ピッコロ。前半の強圧を覆すように、ピツィカートも軽やかに歩き回る。トランペットはふざけたようにブルルと鳴る。
(15分)
再び一変して、プレストで、ヴァイオリンがフーガに突入する。ヴィオラ、第2ヴァイオリン、シンバルが続く。高速の見事な表現。チェロ、コントラバスが入り、さらにホルン、ファゴットなどが順次乗り、金管・打楽器が加わって全奏。オケが一本の鞭となってしなる。戦慄なしには聴けない。強力な打撃が第10番第2楽章と共通する機械的暴力性を現出する。カタカタとウッドブロックが入って、クライマックスに達し、突然次の場面へ。
(18分)
速度が落ちて、弦楽中心の力強い進行から、緩やかなワルツ? 弦が次々に旋律を渡し、ファゴットの夢見心地な旋律が続く。その後、再び神秘的な雰囲気に。ピッコロ、フルートぶるると持続音。そして、ティンパニ。何かが迫ってくる。トランペット、弱トランペット、シンバルが雰囲気を煽る。
(21分)
そこに、フルート、クラリネットからトリックスターの冒頭主題を再現。トランペット、弦刻みを伴い再び力強く行進する。その後、クラリネット、ファゴットが下降していく。
(23分)
続けて、イングリシュホルンのモノローグ。ヴィオラ伴奏の弱々しいヴァイオリンソロ、室内交響曲(弦楽四重奏曲第8番)演奏での悲愴主題を思わせる。ハープ、ヴァイオリンピツィカートで、これも第5番に再現されていく雰囲気。大太鼓、ファゴットが静かにトリックスター主題を再現。イングリシュホルン、マーラー的装飾音とカッコウが鳴る中、暗い響きの中に消えていく。
◆「2度に渡るプラウダ批判と執拗な謝罪要求、それに対抗し続けるトリックスターと友軍マーラー」というのはいかにも分かりやすすぎる図式だが、複雑な暴力性・神秘性の反復・交錯と全体的な推進力というのが、この楽章の構成上の特徴になると思われる。
第2楽章 モデラート・コン・モト
(0分)
マーラーに倣ったレントラー(ワルツの親類舞曲)。ヴィオラ、コントラバスのピツィカート、ヴァイオリンの旋律。コントラバスが急降下。クラリネット、ファゴット、コントラバス中心の進行。やや加速した後、クラリネットにマーラー動機が乱舞して、ティンパニが強打される。
(2分)
トリオに入り、弦が静謐に歌う(第5番第1楽章にそのまま再現される旋律)。ピッコロ、ホルンが続いてしばらく進行。再びティンパニ強打。
(4分)
第2ヴァイオリンから、再び弦楽のレントラー。
(6分)
低弦刻みに、ピッコロ、フルート、クラリネット。木管によるフーガが続いた後、ホルンが高らかに歌う辺り、第7番第4楽章の勝利のシグナルを思わせる。クラリネットのレントラー主題が続く。
(8分)
小太鼓・コントラバスのリズムに、その他の打楽器のチャカポコ(死の舞踏)、ヴァイオリンが入ってふつりと終わる。
〜
第3楽章 ラルゴ〜アレグロ
(前楽章と続けて演奏された! 2000年演奏ではなかった踏み込みである。)
(0分)
ファゴットによる葬送行進曲(トリックスターの葬送か)。コントラファゴットが歌う。続けて、オーボエによりベルクのピアノソナタ主題に似た旋律が奏される。
(1分)
フルートとクラリネット刻み。低弦が蠢く、ピッコロ。「ステンカ・ラージンの首が動いた!」という雰囲気。ファゴット、フルートが滑稽に進行する。
(2分)
弦楽が鳴る中、トランペットが復活のファンファーレ! 木琴が再び鳴り始める! さすがにレミドシではないものの4音連続のモティーフが繰り返される中、トリックスターが再び登場する。巨大な歩み。
(3分)
ヴァイオリンの歌、ヴィオラが刻み。第5・7・8番のアダージョにつながる表現。英雄の高潔な歩みを予告するのだろうか。
(4分)
ファゴット、コントラファゴットが再び葬送。イングリシュホルン。
(5分)
葬送に乗せて、マーラークラリネットが盛んに響きだす。低弦の刻み。
〜
(6分)
アレグロに入る。弦楽のフーガ(しかし、重々しくちぐはぐな歩み)、ホルン・金管が咆哮する。フルートやクラリネットが我先にと行進し始める。またぐらぐらした不安定な低弦の刻みが続く。弦のうねり、執拗な繰り返し(第7番の進軍の動機の先駆か)、木管やホルンのシグナルが鳴る。
(9分)
新たな主題が出てはっきりと行進が再開される。英雄の新たな戦いか? 決然とした曲調。その後しばらくして、ティンパニ2人の突進するような強打、ホルン、クラリネット刻みで、再び小規模ながら審判のラッパの様相。
(10分)
突如、手回しオルガンが鳴るかのようなピッコロとバスクラリネットのダンス。ハープ2台がマーラー7番を思わせるマンドリン風の刻み、チェロ、フルートが軽やかな旋律を奏で、クラリネット、コントラバスなどもダンス。
(11分)
フルート2人でワルツ。パパゲーノ・パパゲーナ、「カルメン」前奏曲などが散りばめられるのはこの辺りか。そして、ホルンやコントラバスが重々しく鳴って神秘的雰囲気に一変し、カッコウ、そしてツグミか別の鋭い囀り(ピッコロ)も入ってくる。再び短いワルツの後、弦の細かな動きで加速。
(13分)
ファゴット行進曲開始。ヴァイオリン、コントラバスが脇を固める。フルート、木琴、チューバ2本のダイナミックな踊り。再びヴァイオリンが脇役音型、今度はトロンボーン行進曲。再びファゴットとピッコロ、コントラバスがうねり。ピッコロ、クラリネット、ファゴットが絡み合う中、トロンボーンが歌う。
(15分)
ワルツ、「薔薇の騎士」から? 弦楽、この辺りのトロンボーンソロが実にうまい。クラリネット、ファゴット、フルートも入る。
(セルゲイとソニェートカの俗物性を表わすワルツ? カテリーナへの裏切り)
(17分)
ヴィオラ、チェロ、コントラバスがうねるような進行が続く。時折思い出したようにトロンボーンの合いの手(第9番の、入りを間違える間抜けなトロンボーンよろしく)。
(18分)
マーラー的なクラリネットと弦の刻み、オーボエが応える。
(19分)
手回しオルガンの回想の後、低弦の神秘的なうごめきが始まる。
(ここまで、弦楽の細かい動きをつなぎにしたメドレー形式。ラヴェルの「ラ・ヴァルス」とミャスコフスキーの交響曲第7番を思わせる夢落ち表現ではないか。方法6「作風変遷の時期区分に即して(中後期を中心に)聴く」 - ピョートル4世の<孫の手>雑評)
(神秘的なうごめきは、カテリーナが歌う「湖の黒い大きな波」(最後にすべてを呑み込んでいくもの)を思わせる。)
(20分)
ティンパニ2人が大きな轟きを響かす。金管の咆哮(コラール)が重なり、そこに木琴が切り込んでいく。
(囚人たちが行進していくか)
楽章冒頭の主題が再現され壮大に響く。英雄の闘争の終局を示すように。圧倒的な力感ですべてが薙ぎ倒されるかのように。
(23分)
ワーグナー的な暗い響き(トロンボーンやホルン)、フルートほか木管の持続音。
(24分)
ヴァイオリン弱音、ハープ(マンドリン)、神秘主題。
(マクベス夫人第4幕「楽じゃない」の後半ハープ伴奏「セルゲイの心変わりには耐えられない」の雰囲気を連想させる)
(26分)
4連音を中心としたチェレスタ(マーラーの「大地の歌」。星になった英雄? 「ミケランジェロ組曲」と対応)
(終幕のムソルグスキー的合唱の代わり?)
トランペットが最後まで闘いを暗示する。
◆「英雄の苦悩と死。そして、葬送された後、燦然と復活、第1楽章にも増して力強く前進する。しかし、それは遊園地で戯れる子どもを思わせるような夢想に過ぎない。最後の衝突により闘いは無残な形で終わる。英雄は星になって微かな記憶の中に残る。」実際には、この第4番が終局とならず、この闘争と芸術家の主題は幾多の作品の中で繰り返され、展開されていった。これを私たちは幸いとすべきだろう。
◆そして、ダスビ団長氏がプログラムに書いたように、この第4番が作曲から25年ぶりに復活した後に続いたのは、第4番に示された理念を歌詞により具現化した第13番「バビ・ヤール」(交響曲第13番 (ショスタコーヴィチ) - Wikipedia)だった。ダスビは来年の定期では、この第13番を再演するという。やや時局的に過ぎるかもしれないが、この日本社会において、恥ずべきヘイトスピーチがなされる中において、実に生々しい選曲となっている。
◆以下、ダスビや音楽とは切り離しての個人的な見解となる。ウヨ厨房、エセ保守、夜郎自大の排外主義(その裏側にあるのは、精神の貧困を示す被害者意識)、鬼畜外道、便所の落書き虫、世間の恥、世界の犯罪者、クズウヨメディア信者、特定価値観を他者に強要する全体主義者、民主的で自由な社会の敵(左翼過激派の跳梁を許すわけにはいかないのと全く同様の理由から許容されない)、中3公民レベルの憲法常識が欠如しているという意味で正に義務教育の脱落者である国賊どもによるヘイトスピーチや、あらゆる種類の差別・強要・体罰・暴力を駆逐し、自由・平等・博愛・平和を追求する人道社会を建設するための救国戦線を開始しなければならない昨今にあって、私は一日本人として声を上げたい。
【7/9追記】
◆ヘイトスピーチを激しくヘイトする私が勧めるのも何だが、中島岳志の新刊『「リベラル保守」宣言』(新潮社)は、保守の立場から「自由」と「寛容」について考えるのに好適な書物。この手の書物にしては圧倒的に読みやすく、しかも学説ダイジェスト的な軟派本ではなく、今後の日本社会の在り方を考える上で役に立つだろう、実のある書物である。ちなみにこの本は『週刊朝日』の佐野眞一連載問題のあおりで、版元のNTT出版より「第3章橋本徹・日本維新の会への懐疑」の削除を求められ、別の版元から出版されることになったという(NTT出版の削除を求めた人物もその経緯の公開には合意したとのことで、一定の度量はあったという言うべきだろうが)。
◆最近、自分のための読書をする時間がほとんど取れていないが、小熊英二らの『平成史』(河出ブックス)などの良書刊行が続いていることを喜びたい。
◆ということで、「ウヨ厨房、エセ保守どもを地上から絶滅する日まで!」と重ねて噴出して了。
【7/14追記】
◆なお、中島著(p25)にいう、真理の唯一性ともに、真理に至る道の複数性を認める真正のリベラルのアプローチとしての「多一論」は、私がいうところの「包摂的一神教」と同意である(「たまきはるいのち」を奪うものへの抵抗(その4 自由と魂の幸福について+「政権選択」選挙に際して) - ピョートル4世の<孫の手>雑評)。
【8/15追記】
◆今更ではあるが、各種リンクを追加してみた。
◇コンサートマスター氏の振り返り
「3.3ダスビ演奏会: ひげぺんぎん不定期便」
◇簡潔にして要を得た感想
「5拍子のワルツ集 オーケストラ・ダスビダーニャ 第20回定期演奏会」
「くらしっく日記3: タコオケの猛烈4番 - 長田雅人&オーケストラ・ダスビダーニャ」
◇動画付事前紹介
「オーケストラ・ダスビダーニャ第20回演奏会のご案内 | 映画、デジもの、音楽、読書のブログ by ひみつねこ」