オーケストラ・ダスビダーニャ第21回定期演奏会の感想〜アンネ・フランク、ウクライナ、日本社会をめぐる理想と現実〜

◆今年もオーケストラ・ダスビダーニャの演奏会に行くことができた。喜ばしからずや。今までにないほどのさらに充実した演奏を聴くことができた。また楽しからずや。音楽としてあくまで上質でありながら、音楽を超えたものを示す。また君子ならずや。
◆何やら久し振りに書き始めたら『論語』冒頭のパロディになってしまった。論語は我が東洋の人道(倫理)の古典であるが、ショスタコーヴィチの音楽もそうした普遍的な道を指し示す域に達していると思う(internasionalen!)。
◆2月11日、すみだトリフォニーホールにその音は響いた。その言葉が歌われた。その一端でも書き留めておければと思う。指揮者はいつもどおり、長田雅人氏、テルミン独奏は濱田佳奈子氏、バス独唱は岸本力氏、合唱はコール・ダスビダーニャ。

映画『女ひとり』の音楽Op26抜粋(11曲)

◆『女ひとり』の音楽と言えば、私は今を去ること20年以上前の高校時代にNHK−FMでロジェストヴェンスキー編曲版を聞いた覚えがあって、そうするとおそらく私が聴いたショスタコーヴィチの最初の10曲の中に入っていたのではないかと思う。しかし、ロジェストヴェンスキーの編曲は使えた資料に限りがあったのか、妙に半端な曲ばかり集めた印象で、それを聴いたときはプロコフィエフの『キージェ中尉』みたいな通俗曲かと思っていた気がする。
◆2008年にフィツ=ジェラルド校訂・指揮の全曲盤が出たのを聴いて、かなり充実した作品だとは思ったが、聴き込んではいなかった。ユルロフスキー盤も後から聴いていたが、51CDセットの1枚でほぼ存在を忘れていた。それで、今回またダスビにしてやられた。録音だと何となく聞き流してしまうくらいの作品からも、交響曲に匹敵する最高度の達成を引き出してしまうのが、ダスビの凄いところである
(この曲の全曲盤は他にもう一つ出ていたようだ)
CD ショスタコーヴィチの映画音楽「女ひとり」3つの全曲盤 : クラシック・マイナー曲推進委員会
◆今回の演奏は、まるでショスタコーヴィチ交響曲第3.5番が出現したかのような充実度(この曲は交響曲第3番と第4番の間、バレエ『ボルト』と歌劇『ムツェンスクのマクベス夫人』と同時期に書かれている。というところで、昨年のプログラムと連続する辺り、実に心憎いまでの計らいである)。バレエ『黄金時代』Op22全曲を聴くと、後年の大作交響曲のイディオムが多く含まれているのを感じるが、このOp26についても非常に劇性に富んだ充実した音楽が含まれている。
◆この映画の粗筋は、下記のページが分かりやすい。また、なんと便利な時代なのか、youtubeでオリジナルの映画も見れるようである。
http://blog.zaq.ne.jp/Kazemachi2/article/346/
◆さて、今回もダスビは独自の選曲(11曲)を行って上記のような優れた劇性を達成している。フィツ=ジェラルド校訂全曲スコアからの抜粋だが、NAXOSから出ている同版のCDのトラック№(下記□の番号)は、今回パンフレットに記載されているスコアの曲番号と対応していない。一応下記の11曲が演奏されていたと思う(もし違っていたらご指摘いただければ有難い)。( )内は同盤の収録時間。

Reel1・2
1.□5 行進曲「大通り」(0:37)
2.□7 ギャロプ〜「素晴らしい生活が待っている」(2:42)
3.□11 行進曲(0:59)
Reel3
4.□21 小屋の中のクズミナ(3:07)
Reel4
5.□23□24 イントロダクション(0:20)〜学校の授業(0:59)
〜6.□25 ベイが子どもたちを牧場に連れ帰る(2:53)
Reel6
7.□38 ステプ(草原)を吹く嵐(1:13)
〜8.□39 吹雪(2:18)
9.□40 嵐の後の静けさ(1:33)
Reel7
10.□47 クズミナの救出と飛行機(1:39)
11.□48 フィナーレ(3;46)

◆今回の演奏では、すみだトリフォニーのオルガン前バルコニーに9名の金管バンダが入っての演奏でさらに華やかさを増していた。

1.行進曲「大通り」
金管・バンダ・打楽器を中心とした、短いが底抜けに明るい行進曲。
2.ギャロプ〜「素晴らしい生活が待っている」
木琴・トランペット・ピッコロ・フルートなどが活躍するこれまた楽しいギャロプ。その後、原曲ではテノールの歌唱が続くが、今回はなんと団長氏のトランペットが代役の長いソロを務めた(先日のアウローラ管弦楽団の「法悦の詩」といい、本当に素晴らしい)。
3.行進曲
2つ目の短い行進曲。小太鼓・ホルンの刻みの上にピッコロ・フルートの特徴的なピロピロリー、ピロピロリーという音型が繰り返される、一度聴くと忘れられない曲。
◆個人的には全く予習していなかったので、この辺りですでに何曲目なのか混乱してしまい、5曲目辺りで復帰。もちろん音楽としては聴けているわけだが。
―――
4.小屋の中のクズミナ
コントラファゴットファゴット2本の低音、そしてイングリシュホルンのソロが、アルタイに来た主人公クズミナの鬱々とした気持ちを表現する。その後、全曲版大通りの場面で聴こえていた手回しオルガンの音楽が再現される。
鉄琴・木管を中心とした夢見るような音楽。リャードフの「音楽玉手箱」もそうだが、ショスタコーヴィチでは『馬虻』の手回しオルガン、『バルダ』のメリーゴーランド2など、こうした可愛らしい小品に無類のうまさを見せるのもロシア音楽の楽しいところ。
ただし、この曲、映画の場面の関係で突然中断されて終わる。

―――
5.イントロダクション〜学校の授業
20秒ほどのピッコロソロのパッセージに続いて、ウッドブロック・固定シンバル・大太鼓とピッコロやトランペットの奇妙な掛け合い。これまた一度聴くと忘れられない印象的な曲。
〜6.ベイが子どもたちを牧場に連れ帰る
雰囲気が一転して、シリアスな弦楽の持続音の上を、長大なオーボエソロが歌う。現代音楽の影響を受けた戦後の映画音楽にありがちな表現だよなーと一瞬思ってしまったが、この曲、1930-31年の作曲なのだった。恐るべきショスタコーヴィチの先駆性。
―――
7.ステップ(草原)を吹く嵐
低弦とハープの伴奏からテルミンの声が響き始めて、不穏な嵐の到来を告げる。
〜8.吹雪
そして、嵐に突入する。オケ全奏とバンダが吠えると、もはやトリフォニーでは収まりきらないくらいのボリューム感。また、少し静まってチェロとコントラバスバスクラリネットコントラファゴットが刻むパッセージがあるが、パンフレット解説にあったように交響曲第8番の第3楽章を予感させる。この辺り、低音の刻みだけでも血が滾るような熱さを感じさせてくれるのがダスビならでは。
9.嵐の後の静けさ
弦楽による静謐な音楽。しかしここでもチェロ・コントラバスの持続音やハープの合いの手が効いており、緊迫感が続く。
―――
10.クズミナの救出と飛行機
ティンパニ連打から木管金管・弦楽が入って力感を強め、盛大に鳴る打楽器やトロンボールのくだけた感じの合いの手など、実に見事な劇性でクライマクスを築く。
11.フィナーレ
低弦と大太鼓の静かな連打とクラリネットファゴットが不思議なうねりを生み出す。この音響は主人公クズミナ救出の飛行機到着のエンジン音の描写。
その後、はじけたような輝かしさを持ったフィナーレに突入する。現実の社会主義国家の早くもの退廃と対比される、底抜けに明るい理想。理想を初めから放棄したかのような言説が大手を振ってまかり通る現代日本にこそ、こうした響きは必要なのかもしれない。そうした胸を打つ音楽に仕上がっていたと思う。
◆実際にホールで聴いてみると、この曲のオーケストレーションは相当巧みに書かれていることが分かり、先年の『バルダ』Op36と並んでプラウダ批判前の秀作であると気づかされる。弦楽ではチェロやコントラバスの持続音が多用されるが、時にヴィオラが入ってくる辺りが絶妙に巧い。また、全奏での打楽器を、場面に応じて小太鼓・ティンパニ・固定シンバルなどと、トライアングル・シンバル(全身を傾けて前方に向けて響かせていて迫力があった)・大太鼓などとを使い分けているようで、一聴分かりやすそうな曲なのだが、相当精緻に書き込まれていると思う。
◆さて、ここ数年のダスビの演奏は、表現があまりに巨大で、私なども当日はただただ圧倒されてしまう感があった(決して力任せに鳴らしている訳ではない)。昨年の「バレエ組曲」抜粋もCDで聴きなおしてみると、やはり相当充実した演奏だった。来年は会場が久し振りに東京芸術劇場に戻るようだが、多少デッドな音響の迎撃ぐらいがちょうどいいのかもしれない。フィツ=ジェラルド盤もかなり良い演奏で、今回のダスビ版組曲の曲順で聴いていくと、時間も手ごろで相当な充実感を味わえるのでお勧めであるはあるが、また1年後に今回の演奏をCDで聴き返すのが実に待ち遠しいことである。

交響曲第13番Op113『バビ・ヤール』(1962)

◆演奏会前半からとんでもない充実度であったのだが、後半の『バビ・ヤール』については私などがここに駄文を記したところで、あの演奏の何を伝えることになるのかと思わざるをえない、言葉を失うほどの演奏だった。オンラインアンケートの回答にも「この演奏に何を書けばいいのでしょう? 第1楽章後半はもう涙なしには聴けませんでした」としか書けなかったくらいであるが、もう少しだけ頑張ってみよう。
◆ダスビでは第13番は2回目の演奏。前回はちょうど16年前の1998年2月11日東京芸術劇場大ホールでの演奏だった(バス独唱は同じく岸本力氏)。私が御茶ノ水ディスクユニオンクラシック館(駅横の凄く狭かった店)でチラシを見つけて、初めてダスビを聴きに行った回だった。私の場合、高校時代からムソルグスキーが大好きだったので、『ボリス・ゴドゥノフ』『ホヴァーンシチナ』といったロシア史劇の流れで、『バビ・ヤール』も早くから聴いていた(第7番よりもずっと早く)。
◆ただ、その時の当日の演奏の印象はそれほど強く残っていない。第4番も初回演奏時のCDを聴きなおすと非常に立派な演奏だったので、聴く側の理解が不十分だったのだろう。手許のCDで改めて聴くと、やはり相当に堂々たる演奏である(ちなみにこのCD、今回の会場でも販売していたが、再プレス?)
◆今回の演奏を聴くに当たっては、どうしても原語も参照しながら聴きたかったので、ウサミ・ナオキ氏のローマ字化された原詩と対訳が掲載されたハイティンク盤のブックレットを持ち込んで聴いた。会場ではプロジェクターによりオルガン脇に字幕が表示された(曲進行とぴったり合わせていた)のと、パンフレットに6ページにわたる訳詩を含む詳細な「あらすじ」が掲載されていた。

第1楽章「バビ・ヤール」(Adagio)
◆この交響曲は全楽章エフトゥシェンコの詩に曲を付けて作曲されているが、中でもこの第1楽章が非常に重い。音楽的にもチャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」と同じように第1楽章終結に重大なクライマクスを迎えるようになっている。
◆バビ・ヤールはウクライナの首都キエフ郊外の峡谷、第2次世界大戦中の1941-43年のナチス軍によるウクライナ占領時代にこの峡谷でユダヤ人など7万人とも12万人とも言われる大虐殺が行われた土地である。一方で、ロシアにもユダヤ人迫害の歴史があることから、ソヴィエト政府もこの事件を「ユダヤ人虐殺」の側面を強調することを厭ったという。
バビ・ヤール - Wikipedia
◆それに対し、エフトゥシェンコの詩は、自身が民族的、血統的にユダヤ人に属するものではないが、その「ユダヤ人になる」ことにより、自身が誇りを持って「真のロシア人」であることを証明するといった内容を持っている。この詩はそうした歴史性・政治性を持ちながらも、「ユダヤ人になる」ことへの美学的な「感情移入」により高度の文学性を達成している。
◆バビ・ヤールに立った詩人は、自らが十字架に架けられたイエスであり、無実の罪で糾弾されたドレフュスであり、ロシアのユダヤ人虐殺(ポグローム)で殺されたベロストークの少年だと幻視する。エフトゥシェンコの詩でも、ショスタコーヴィチの音楽でも、その非人道的な暴力性が具体的に描かれる。最も醜いものを告発するために、真摯な追悼とともに、そうした描写が必要とされる。バス独唱も合唱も管弦楽も、弔いの鐘の響きと葬送の歌から、弦楽全体が鞭のように締まった表現により緊迫し、やがて卑劣で汚いロシア人の同胞が少年の母をぶちのめす様までをムソルグスキー的狂奔(ロシア大衆歌の引用)により描写していく。演奏者は被害者を演じ、加害者となりきって音を響かせる。打楽器も金管も決して力任せでない、抑えた表現ながら、心に突き刺さる鋭さを持って響く。再び弦楽と鐘が弔いを響かせ、バス独唱はロシアへの想いを訴える。
◆そして、第1楽章の後段の劇的な場面として、アンネ・フランクが描かれる。ロシア音楽では、チャイコフスキーの「コンサート幻想曲」の第2楽章が分かりやすい例だが、音楽的に全く相反するシリアスとユーモアを同時並行で奏するコントラストの技法が使われる(A.ルビンシテインの何かの曲が早い例だったと思う)。ここではアンネ・フランクの描く至純な愛の幻想と迫りくる危機が対比され、引き裂かれたかのような人間の持つ二面性が描かれる。余りに残酷な対比であって、涙を禁じ得ない場面である。しかし、これはもちろん有名無名の死者たちの直面した現実の方が残酷なのであって、それを思うとき、もはや耐えがたい、いたたまれない気持ちになる。
◆緊迫が最高潮に達した時に、主題が強奏で回帰する。私は動揺し、狼狽する。詩人は歌う、「私はここで虐殺された老人だ、子どもだ」「私はユダヤ人の血を持たないが、激しい敵意で反ユダヤ主義者に私は憎まれる。だからこそ、私は真のロシア人なのだ!」と。第1楽章の最後の音が断ち切られるが、弔いの鐘と銅鑼の音だけが長く響いたまま残る…。

第2楽章「ユーモア」(Allegrtto)
アンネ・フランクの緊迫の場面から、主題の回帰の辺りで激しく反応しハンカチを取り出した。ダスビの演奏では、2006〜2008年の第8・15・11番、2011年の室内交響曲でいずれもジワリと涙が沁み出す場面があったのだが、今回は音こそ立てなかったが激しく泣いた。
◆そんな中、すでに音楽は激しいシンバルの爆裂から木管が踊り回り、「ユーモア」に突入していた。ショスタコーヴィチは当初「バビ・ヤール」単独のカンタータを構想したようだが、第2楽章と第5楽章の哄笑性が伴うことで、交響曲として、芸術作品しての力が極点に達しているのが、この曲の凄いところである。 アドルノの「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」(「文化批判と社会」1949)という問いかけへの見事な回答がここにある。団長氏は解説でこの曲を「ヒトラーを体験してしまった後の『第九』」と表現しているが、この曲を「20世紀音楽の金字塔」と評しても決して行き過ぎではないだろう。
トリックスター的なユーモア、イソップやナスレジン・ホジャはどんな政権にも金権にも揺るがされることはない。死刑になっても首だけで叫ぶぞ。ヴァイオリンのソロ、木管のおどけたワルツ、鳴り響くトライアングルとともにドタドタと跳び回り、そしてマーラー的な展開を見せたかと思うと、勇ましく冬宮殿へ行進していく。ユーモアに栄光あれ! 最後は指揮者が指揮棒を大回ししてバタンと終わった。
◆ここで、ユーモアの首が飛ぶ場面では、ショスタコーヴィチの旧作『イギリスの詩人の詩による6つの歌』(1942)〜3.「処刑前のマクファーソン」が引用される。この首だけのユーモアは『ステパン・ラージンの処刑』(1964)でも再現され、また『イギリス詩人』歌曲集も交響曲第15番と同じ1971年に管弦楽編曲されていく。

第3楽章「商店にて」(Adagio)
◆オケはいったん音合わせをして、後半の連続した3楽章に入る。チェロとコントラバスによる重苦しい雰囲気。ヴィオラが美しく乗るとバス独唱がロシアの女性たちが辛抱強く商店に並んで長い順番待ちをして買い出しする様子を描写していく。カスタネットとウッドブロックの瓶や鍋の音。弦楽とハープ2台、ホルンや静かな銅鑼の音などが響いていく。「彼女たちはすべてに耐えてきた」、弦楽が柔らかにうねり、ハープが静かに時を刻む。
◆しかし、彼女たちを欺く不正義に対する怒りが込み上げ、裁きが強奏される。その後、解説で特記されていた、当時のソ連ではありえないはずの合唱のアーメン進行、再び冒頭の低弦が回帰する。
〜第4楽章「恐怖」(Largo)
◆感情を圧し殺したように沈んだ銅鑼と大太鼓の響きが続いて、第4楽章に入る。低弦の重苦しい雰囲気から、チューバソロと合唱。大太鼓の響きは解説では公安が「ドアを叩く音」だとされている(第1楽章アンネ・フランクとも照応するか)。スターリン時代の恐怖政治の亡霊。ホルンのソロとエコー。バス独唱「恐怖はどこにでも影のように滑り込み…」。
◆バス独唱は「これは今では昔のこと、今思い出すのもおかしいほど」と一度その亡霊を振り切るのだが、それを弱音トランペット〜フルート〜弱音トロンボーンファゴットの短い「対の遊び」が伴奏するのは、やはりバルトーク管弦楽のための協奏曲を意識したものだろうか?(パンフレット解説によると、第2楽章の「処刑前のマクファーソン」も、バルトークの2台のピアノと打楽器のためのソナタ(1937)〜第3楽章の主題を用いている)。また、第5楽章のフルート二重奏を先駆するものだろうか。
◆再び緊迫感が高まり、弔鐘が響く中で、知人や家族との何気ない会話が密告となり、深夜にドアが叩かれ逮捕され、強制労働か処刑へとつながる恐怖が歌われる。再び革命の行進「私たちは、自分自身と語り合うことを時として死ぬように怖れた」。ヴィオラが高速で響き、鉄琴の不思議な音色から弦楽が入り、「現代の恐怖」が歌われる。やがて、全奏でクライマクスを迎え、弔鐘が強く鳴らされる。この、人間の不誠実を歌う現代の恐怖が決して現代日本社会で他人事ではないという恐怖に改めて身の毛のよだつ思いがする。
〜第5楽章「立身出世」(Allegretto)
◆そして、対のフルートにより軽快だがアイロニカルなメロディ(ショスタコーヴィチ独特の雰囲気で、交響曲第10番のフィナーレ本編の速度を落としたような表現)を奏でて終楽章に入る。オーボエクラリネットファゴットがメロディを歌い継ぎ、第2Vn以下低弦が伴奏してしばらくすると、ファゴットソロが滑稽に歌いだすのに合わせて、バスと合唱が「地球が回ると言ったガリレイを馬鹿者扱いした家族持ちたちの偽りの立身出世」を歌う。弱音トランペットの合いの手やコントラファゴットによるふざけた音響などを背景に、字幕には大きく「俗物根性」の文字が躍る。さて、私たちはガリレイの側に立っているのか、それを糾弾する俗物の側になっているのか、どちらなのだろうか?
◆弦がしっとりと歌い、再びファゴットソロ、ホルンソロの持続音に乗せて、弦五部のピツィカートが始まり、再び冒頭の主題を奏でる。密度の濃い表現が続く。ホルンのシグナルが繰り返され(レニングラード終楽章のように)、「シェイクスピアパスツールニュートントルストイがしたような本当の立身出世」を指し示す。岸本氏が「トルストイは、レフか?」と合唱の方を振り返って確認する。
◆その後、チェロ、コントラバスの低弦から、ガリレイのテーマを展開する大規模なフーガに入る。この辺りの表現は、アイロニカルな主題や滑稽なファゴットと対照的に、交響曲第11番・第12番で描かれたロシアの重苦しい歴史の描写に立ち戻るかのようで、このフィナーレに重みを加えている。力感を増して、3本のクラリネット、6本のホルンが叫んで、打楽器が刻む。再び滑稽なファゴット、そして雰囲気が落ち着いて「私は、それらの偉大な人物の立身出世を手本とし、俗世間での出世をしないことを出世とする」と歌われる中、低弦のガリレイのテーマ、3本の弱音トロンボーンと繰り返される弔鐘。バスクラリネットのソロが静かに歌い、弔鐘が続く中、ヴァイオリンとヴィオラの二重奏が冒頭の主題を繰り返す。こうして時代は繰り返す。誰が偉大で、誰が愚か者なのかは、あざなえる縄のごとし。弦楽が歌い継ぐ中、チェレスタガリレイのテーマを問いかけるように繰り返すと、そのまま弦の持続音と小さな鐘の音が静かに消えていく…。
◆この終結、ダスビの前回演奏時も静まった後、きちんと一呼吸おいて拍手が始まっているが、今回は演奏全編の余りの充実ぶりとその音楽の伝えるメッセージの途方もない重さに私のような古参兵は最後の音が微かに消えた後も心臓がはち切れんばかりに緊迫したまま、拍手を始めるタイミングすら失ってしまった。その窮地を救ってくれたのが、こちらのブログの方であるらしく、ようやく拍手を始めることができたのだった。
とても『濃い』ショスタコーヴィチでした【初めてのダスビ演奏会】:【本家】音楽・読書・ときどき旅行日記2.0:So-netブログ
◆今回、この感想を、バビ・ヤールの第4楽章までは早々に書き上げたが、その後2週間ほど全く手を付けられなかった。その際に、何か身辺から個人のIDに関わる書類が多数出てきたかと思うと、それが実はシェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」に描かれたユダヤ人たちに関わるものだ…という奇妙な夢を見た。この早くも1947年に書き上げられた、ナチスによるユダヤ人迫害を描いた作品を忘れていたことを自分の身体の方が注意してくれたようであった。
◆演奏時間7分ほどの凝縮された作品であるが、ショスタコーヴィチもその管弦楽法などは参照しているのではないかと空想する。なお、この作品については、下記のブログが親切な案内となっている。
http://bokunoongaku.minibird.jp/?p=2560

ダスビに関係ない脱線と蛇足

◆さて、もはやダスビの演奏への感想を締めくくるのに、適切な言葉を持ち合わせておらず、いくつかの脱線と蛇足を書き連ねておく。
◆かのバビ・ヤールはキエフ近郊であるが、この古都(モンゴル侵攻以前のキエフ・ルーシの中心地)を首都とするウクライナは、政治的混迷を深め、財政は破綻寸前、軍事動員力の実質が6000人程度という。国家の衰微がそこまで進んでいたことに驚くが、正に住民投票が行われているクリミア半島の帰属が問われる背景は根深い。
ウクライナ新政権はクリミアでのロシア語公用語の法律を廃止したとか、そもそもフルシチョフが割譲するまで、クリミア戦争や第2次世界大戦でセヴァストーポリを死守するなど、ロシア帝国ソヴィエト連邦にとって重要な地域であり続けたわけで、ロシアが一方的に強権を振るっているとも言いがたい部分はある。しかし、平和の祭典の最中の軍事介入さえ辞さない姿勢には、昨今の理想主義が相対化され尽くした世界の実相を見せられる気分になる。
◆話は大きく飛ぶ。昨年末に書き損ねたのだが、2013年12月25日に地元川口の岡村市長が腎不全により急逝したのだった。川口市では、毎年国際交流フェスティヴァルが開かれ、文化に対する造詣も深く、地元政界の状況などつとにうとい私なのだが、その演説の一端を聴いても深く尊敬できる政治家だったのは間違いない。
◆当ブログでも岡村市長について折に触れて取り上げていた。
3選目を目指す岡村氏の街頭演説のあまりの迫力にに思わず聞き入ってしまったという話。
川口市の選挙と日本の政治について - ピョートル4世の<孫の手>雑評
今読むといかにも気の抜けた文章であるが、3選後の岡村氏の毎日新聞へのコメント、「変化の時代、難しい時代に、思いを新たに、川口の発展のために死に物狂いで頑張る」を記録している。
川口市長選挙結果ほか - ピョートル4世の<孫の手>雑評
国際交流フェスティヴァル
地元ネタ:国際交流フェスティヴァルの光景と感想(+80年代前半論?) - ピョートル4世の<孫の手>雑評
昨年の「至宝の日本画」展
川口市制80周年記念「至宝の日本画展」(11/11まで) - ピョートル4世の<孫の手>雑評
この急逝を受けた市長選は、小泉純一郎細川護熙両氏による脱原発争点化が不発に終わった都知事選と同日に行われていたのだった。
川口市が2012年にまとめた「多文化共生指針」によれば、川口市外国人登録者比率は4.1%で日本全国6位であるという。多文化の共生は政府としても取り組んでいる現実的な問題であるが、それを否認して誇大化した幼児的な自己の防衛に必死になる人物たちが「保守」を名乗る風潮の何と嘆かわしいことだろうか。宮台真司がつとに指摘するように、厨房・ヘタレ・非モテこそが「保守」として尊大に振る舞う時代なのである。
◆片や、川口市から出た政治家としては現総務大臣もいるのだが、福島が大変な時期にも竹島について街頭で叫んでいる印象があり、私の中では評価していない。彼の竹島への態度を延長すると、クリミアを併合するロシアの行動のような「力による現状変更」もむしろ支持すべきものではないかと感じてしまうが、どうなのだろうか(竹島の場合、韓国が力で押さえているのは間違いないが)。
◆まして、あれだけ公式にアメリカ政府から牽制・非難された靖国参拝を安倍首相に続いて行ったことには許しがたいものすら感じる。年頭に川口駅前街頭で「自民党は嫌い!」と叫んでいる人がいて、その時新藤総務大臣の参拝を知らなかったのだが、知っていたら私も同調していただろう。
◆今後、日本企業に対する強制連行訴訟が続くことが予想されるが、「営々積み重ねてきた戦後処理の枠組みを否定して国益を声高に主張する厨房保守こそが現今の日本の国益を損ねる」といった喜劇的情景(パンドラの箱を開いてそれを自ら喜んでいるようなもの)はぜひとも避けていただきたい。
◆上記のバビ・ヤール第1楽章でも描かれたアンネ・フランク本の損壊に関する騒動は、容疑者の奇妙な妄想に着せられそうではあるが、身近なところで浦和レッズの差別横断幕問題などがある。これも当事者にはそれほど確たる意図もなかったものかもしれないが、山本七平の『「空気」の研究』のとおり、その臨在感こそがおぞましいものではないか。
ここに指摘されるように、いつの間にかこうした病根がはびこっていたものらしい。
ハフポスト - 日本や世界のニュース、有識者と個人をつなぐソーシャルニュース(ハフポスト、ハフポ)
一方では、こうした呼び掛けもあるわけだが。
浦和レッズの人種差別段幕事件のその後についてのお願い - pal-9999のサッカーレポート
◆かつて誇り高かったレッズファンですら、いつの間にか一種異様なカルト集団と化し、しかも嫌韓厨房すら混じっていたものらしい。サポーターグループは解散したとのことだが、本当に二度と浦和レッズに近づいてほしくないものだ。
◆建艦厨房の人々にとっては、今上陛下の触れられた桓武天皇生母の高野新笠についてすら史実を否認したがるようだが、大御心に背く不敬の域と言っていいだろう。
◆こうした状況を考えると、先の都知事選で田母神氏が61万票を獲得したことにはやはり慄然とせざるをえない。田母神氏個人がどうのというわけではなく、私たちの社会を脅かすような厨房保守の数と戦うことを考えるからである。
安倍総理の近辺をめぐっても、自ら「保守」の名を汚す不見識を振りかざす低劣愚昧な取り巻き人事など問題に事欠かない。
◆一方で、韓国との関係では、実は岸信介こそ韓国・北朝鮮との強力な人脈を持ち、実際「土下座外交」と批判された国策件研究会の矢次一夫と李承晩大統領との会談(1958)を行うなど、韓国との関係改善に取り組んだ人物であることが指摘される。
http://mainichi.jp/shimen/news/20140312dde012010002000c.html(特集ワイド:冷え切った日韓に和解の道はあるのか 岸信介元首相、幻の伝言追う:毎日新聞)」
(閲覧には会員登録が必要)
◆また、週刊宝島的なゴシップレベルのソースだが、安倍家には北九州在日系パチンコ企業の経済支援が惜しみなく行われてきたそうである。これも、満州国以来大陸への経済進出に取り組んできた歴史の綾か。それに比べれば、保守厨房どもの幼稚な振舞いときたら、性質の悪さは歴然としており、相手にしたくもないくらいだが。
◆また、取ってつけたようにアンネ・フランクの家に行って微笑んだり、アメリカと同調してクリミアを併合したロシアを非難してみせる辺り、安倍の保守姿勢というのも随分柔軟な風見鶏的な発送に基づいたものに見えてくるのである。哀れかな、ヘタレ保守
◆日本社会の歴史を振り返るに、大乗仏教国としての普遍主義が近世以降、神国思想の民族主義に取って代られていく流れがある(佐藤弘夫『神国日本』)が、その末流にしても現今の保守厨房の体たらくは描写するのもけがらわしいほどである。
◆音楽を愛する者にとって、あの佐村河内問題もまた嘆かわしいもので、音楽を創造すること自体を汚したような展開にその罪の深さを感じる。J.S.バッハのクリスマス・オラトリオやヘンデルメサイアを聴くにつけても、こうした喜びの音楽が存在することの奇蹟に打たれるわけだが。
◆一方、東京においてのアマオケの充実ぶりたるや、その団体数もさることながら、すさまじいまでの水準に達しており、奇蹟の都市といってよいと思う。私もアマチュア・オーケストラがなぜそこまで凄いのか、きちんと説明できなかったが、この1975年の「バビ・ヤール」日本初演早稲田大学交響楽団)をめぐる記事へのコメントでは明快に「練習時間が多いから」と解答している。
岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」
◆書き損ねたものとして、以下のようなアマオケ演奏会を聴いてきたことを付記しておく。

2013年9月22日
アウローラ管弦楽団特別演奏会(ミューザ川崎
S.I.タニェーエフ 序曲「オレステア」
マーラー大地の歌
前者は私がリクエストしていた曲だが、フィナーレ前の加速など期待以上の仕上がりだった。後者では古典音楽を解体し尽くすような終楽章「告別」の超絶な解釈・表現が際立っていた。

2014年1月5日
アウローラ管弦楽団第10回定期演奏会(すみだトリフォニー)
スクリャービン「法悦の詩」
リムスキー=コルサコフシェエラザード
前者で私はアマオケスクリャービン交響曲第1番から第4番を聴けた。ダスビ団長氏のトランペットが素晴らしいの一言。後者は、交響組曲管弦楽のための協奏曲に仕立てたソロだらけのこれまた超絶な解釈と表現の演奏で驚愕した。

2014年1月26日
ラスベート管弦楽団第30回定期演奏会ティアラこうとう
チャイコフスキー「マンフレッド交響曲
指揮者のこの曲への愛が伝わってきて、特に複雑な終楽章の真価を伝える名演だった。

◆その他、さかのぼれば、ル スコアール管弦楽団の2009年のアルプス交響曲と2011年のマーラー交響曲第10番(クック版全曲)など、とんでもない名演の宝庫である。こうした場に立ち会える仕合せに感謝して、私たちの社会が良きものであるように振る舞いたいと思うものだが、私はそれに応えられているのだろうか?
震災後3年と少しを数えた日に記す。
【4/6】蛇足にさらに補足を追記した。