『アジア辺境論 これが日本の生きる道 』(集英社新書)
◆最近、内田樹の議論を以前ほど丁寧に追っていなかった。
そのせいか、昨日書店で何気なく『アジア辺境論 これが日本の生きる道 』(集英社新書)を手に取りページをめくったところ、
「共和制」と「グローバリズム批判」との関係についての実に瞠目すべき議論が展開されていて手放せなくなり、1日で読了した。
(なんとその前に読んだ『新訳 メアリと魔女の花 』(角川つばさ文庫)の倍くらい速く読めた)
◆ということで、約2年半ぶりにAmazonレビューを書いたので、下記にも転載する。
(ブログ記事も1年7か月ぶりですけどね)
今読むべき瞠目の書
◆何気なく手に取ったが、1ページ読んで手放せなくなり、1日で読了した。
「内田樹・姜尚中の言うことなんてどうせ分かってる」
「そんな人たち全然知い」
どちらの人でも、安倍政権が行き詰まりを見せる今読むべき瞠目の書だと感じた。
◆対談本にありがちな散漫な話の羅列や、危機感だけで知性を感じない議論に陥っていない。
思想家・内田樹と政治学者・姜尚中が交代で、一貫したテーマの下で、それぞれのトピックをある程度まとまった分量で語っているのが好ましい。
◆内容としては、第1章でグローバリズムによって「自由」が「機動性」にすり替えられ、日本の国家・制度がその方向で解体され続けていることの指摘が圧巻(全編の半分を占めるが、グローバリズム批判として簡潔でありながら鋭い言及が続く)。
◆一方、第2章以下の東北アジア辺境国(日韓台香)連携論は多分に夢想的な未来構想であることを、内田・姜の両氏とも認めている。しかし、ベタな現状追認に基づく「安倍政治的なもの」にどっぷり浸かった日本の一部社会には適切な警句となっているだろう(内田に言わせると、こうした権力批判・現状批判こそが、日本という国の「復元力・補正力」≒レジリエンスを決めるのだから)。
◆この夏に出版されたティモシー・スナイダー『暴政:20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』(慶應義塾大学出版会)と並んで、即読むべき本だと思う。
◆本書の議論からキーワードを拾うと下記のとおり(羅列的ではあるが、内田・姜がそれぞれ中心的に語っているトピックを一覧してみた。議論の道筋を明確にするために、あえて本書に明記されていない言葉をいくつか補っている)
【はじめに】
(内田)
国力=復元力(レジリエンス)&イノベーション力(ヴィジョン提示力)
【1.リベラルの限界】
(内田)
カント的共和制
自由とグローバリズム的機動性(モビリティ)のすり替え
(姜)
マーケット民主制
(内田)
立法府の空洞化
(姜)
懲罰人事による弱い司法権
(内田)
大陸型帝国の中世的割拠
資本主義の限界と戦時経済
国土放棄とネーション解体
【2.…新しいアジア主義…】
(姜)
アジア独自のコスモロジーの受肉
(内田)
大陸型帝国としての中国
辺境国日韓台の「合従」型連携
韓国の社会科学・人文科学
樽井藤吉の『大東合邦論』
【3.…確執をどう乗り越えるか】
(姜)
日韓連携のシナジー
韓国政治の安定化
(内田)
カウンターカルチャーと国家の復元力
(姜)
諜報機関のトラップ(ロシア→安倍)
アメリカリスクの日韓分散
(内田)
日韓台香の学生デモ
連邦的共同体
【4.…日本の行く末】
(内田)
グローバルエゴイストによる国家財産の私物化
雇用形態分断と貧困化
日本の教育現場のグローバル助成金によるタコツボ化
本音主義という脳内幻想
韓国社会の復元力
(姜)
日本の隔離・隠蔽システム
(内田)
操作されたナショナリズムの解毒
【おわりに】
(姜)
悪しき現実主義・保守
ポストアメリカの時代への賭け
オーケストラ・ダスビダーニャ第22回定期演奏会を振り返って
◆いよいよ明後日1月31日に第23回オーケストラ・ダスビダーニャ演奏会が迫っているが、都合によりお蔵入りになっていた昨年の第22回の感想を上げて、今回への予告としたい。
◆当日は、ホール手前のラウンジでプレコンサートが行われた。開場時間が開演の1時間前と早いので、やはり早く来るべきところ(私は都合により途中から聴いた)。曲目は、フルート四重奏による「バレエ組曲」(M.オッリス編)より3曲(抒情的ワルツ、ロマンス、ワルツ=スケルツォ。第1番の第1・3・5曲か)。技術的にも立派で、なかなか素敵な雰囲気に仕上がった演奏だった。
◆ホールは改装後の東京芸術劇場、2階席で聴かせていただいた(個人的には朝比奈隆晩年のシューベルト演奏後の拍手への立ち姿を思い出す席だった)。
交響詩「十月」Op131(1967)
◆弦楽はスコア順配置で、金管が横1列に並んだ。マエストロ長田の登場からただならぬ雰囲気。トランペットには、団長が乗っていないか。
演奏は導入部から、堂々とゆったり歩みを進め、風格すら漂う(ハ短調)。ホルン・弦楽がふくよかに響き、芸術劇場の左右に広い形状が好ましく感じる。
〜主部に入って、ホルンやフルートによるアラームが響いて緊張感を増すが、余計な力みはなく、堂々とした風格は失わない。しばらくしてようやくスネアドラム登場、ティンパニのエコーが響く。
〜クラリネットが『ヴォロチャーエフの日々』からの「パルチザンの歌」を歌うが、淡々と進んでいく。私の場合、最近はアシュケナージ指揮ロイヤル・フィル盤でこの曲を聴くことが多いが、雰囲気は似ている。
〜その後も、細部まで隙なく展開し、再びティンパニ強打からの凶暴さ。また、イングリシュホルンの「パルチザンの歌」、静かに刻むピツィカート、弦がうねりながら管楽が咆えて力感を増す。最後の盛り上がりも堂々と歌ったうえで、自然にファンファーレへつながる。両翼シンバルの音響的かつ視覚的な効果もあって華やかな雰囲気で終わった。
◆という、実に立派な演奏で、改めてダスビが新たなステージに進んでいることを感じさせた。この曲は、悪くすると体制への迎合作と取られかねない作りだ(フィナーレのファンファーレの安っぽさ、取ってつけたようなハ長調の勝利はいかんともしがたいと思っていた)が。それがベートーヴェンのエグモント序曲か何かを聞いているような錯覚に陥った。
映画音楽『ニュー・バビロン』Op18より3つの場面(1929)
◆先年演奏された「バルダ」もそうだったが、1930年代前半までの若きショスタコーヴィチは「アヴァンギャルドのモーツァルト」とでも呼びたくなる、才気煥発、遊び心に満ちた付随音楽を書いているが、この作品もその1つ(全曲は約92分)。ただし、本作は、本編映画が最終的には悲劇の(普仏戦争前後の、デパート「ニューバビロン」に象徴される華やかなブルジョワ生活と悲惨なパリ・コミューン鎮圧を対比的に描く)ため、音楽も結末はひたすらシリアス。それ以上に、台詞なしの無声映画であるがゆえに、映像と音楽を全編に渡って完全同期させて総合芸術化してしまおうという野心的な試みだったわけで、ショスタコーヴィチの意欲のほどがうかがえる作品である。
◆しかし、今回のダスビは音楽の中のショスタコーヴィチならではの「遊び」を目一杯体現するための、画期的な演出を採用した。管弦楽の演奏会に演出もないものだが…となりそうなところを、思い切りやってくれました。演奏会形式の歌劇上演ではないが、「演奏劇」とでもいうべきものが舞台上で展開されたのである。
◆これは、ただしダスビが勝手にやっているというよりは、元にしたロジェストヴェンスキー版の組曲(7曲。約42分)がそのような構成(楽しげな場面中心に抜粋)をとっていることに起因する(ダスビも演奏会パンフレットでは、主要キャスト紹介など映画についても詳細に解説されている。念のため)。手許のヴェネチア盤によると、ロジェストヴェンスキーがこの組曲版を録音したのが1975年10月なのだが、ショスタコーヴィチが8月9日に亡くなって2か月というところでこんな楽しげな曲を録音したロジェストヴェンスキーって一体?(もちろん氏にはシリアスな問題作の第4番をショスタコーヴィチ生前から盛んに振っていた功績があるわけだが)。
◆なお、映画音楽そのものは、2011年リリースのフィツ=ジェラルド指揮バーゼルシンフォニエタの全曲盤CDで聞くことができるが、ちなみにすでに2000年に東京で氏による全曲演奏会が開かれていたらしい。なお、著作権切れの恩恵で、映画そのものを全編下記で見ることが可能である。
「(1929) Novyy Vavilon ~ The New Babylon [Grigori Kozintsev, Leonid Trauberg] [subs: de en fr] - YouTube」
(無声映画の説明字幕はロシア語で読めないものの、親切なことに英訳テキストがダウンロードできる。)
「New Babylon (новый Вавилон) (Eng subs)- Music by the Magic Lantern Show Orchestra - YouTube」
(こちらは英訳スーパーがあるのだが、音楽は別物)
◆演奏は、一管編成。つまり、弦楽(オリジナルでは各1名)と木管四重奏+金管四重奏(1Tp、2Hr、1Tbの並び)、それに打楽器奏者6名(演奏以上に怪しい動きが多かった?)。まずマエストロにより「お見苦しい点がある」旨の前説があった上でスタート。
1.戦争(フランス兵出征〜デパート大売出しの場面)(組曲第1曲/Reel1の冒頭と最後)
◆奇妙なまでに陽気な行進曲から始まる。いかにもダスビ調?なノリ。団長トランペット率いる金管四重奏と弦楽が実に快調。管楽奏者が立ち上がったり、タンバリンが椅子の上に登ったり、弦楽のやけに空疎なトリル風の動きがあったり、終盤にはフレクサトーンを持ったおじさんが指揮者の前まで迫ってくる妖しげな動きを見せたりと…(ちなみに、フレクサトーンの仕組みと音色はこちらで確認できる。この楽器1920年ごろ発明されたようだが、ショスタコーヴィチは南京虫Op19や哀れなコロンブスのフィナーレOp23でも使っている)。
「FLEXATONE Mi nuevo juguete! - YouTube」
「フレクサトーン | 音楽辞書なら意美音−imion−」
「フレクサトーン - Wikipedia」
最後は再び行進曲で締める。
2.パリ(舞踏会〜プロイセン軍の進撃)(組曲第2曲/Reel2全曲)
◆ワイングラスが出てくる中で、トランペット、弦楽中心にワルツ。トランペットは立ち上がって横向く、ヴァイオリンソロのコンマスは立ち上がって歩く。トロンボーンは大あくびする。クラリネットソロが眠たげなメロディ、打楽器は誰が叩くかを巡って6人で協議?…と前半はリラックスした雰囲気?で進む。
◆後半に入ると、弦が高速に音楽を刻み、やや緊迫感が高まるが、切れ味鋭い弦楽のコントルダンス風音楽が入ってきたかと思うと、トランペットファンファーレからフレンチカンカン、前説どおり手拍子が入る、映画も微妙にコサックダンス風?だったりするので…こんな感じです。
◆その後、低弦のうねりや大太鼓・固定シンバルにより切迫感が高まり、静かなまま加速していく。この辺りの異様に正確な高速進行は、交響曲第4番のアレグロを予告するようだ(先ほどまでの大騒ぎとのコントラストが実に見事)。ティンパニロールで終結するがそのまま次曲に入る。
3.ヴェルサイユ(バリケードに立てこもるコミューン〜ブルジョワの歓喜)(組曲第6・7曲/Reel6・7の一部)
◆固定シンバルの持続音とコントラバスの暗いうねりに、金管乗って、シリアスな情景を描写する。弦楽八重奏でワルツ、フルート、クラリネットも乗って、可愛らしい雰囲気に。奥から毛皮コートの女性が歩いてきて、ヴァイオリンソロ、ファゴットとクラリネットの奇妙な絡みなどが続いた後、女性がピアノを弾き始める。簡素なメロディーが弾かれる(曲は実は、チャイコフスキーの『子どものためのアルバム』Op39〜第16曲「古いフランスの歌」の引用。ただし、映画版では原曲にない展開がされる。フィツ=ジェラルド盤解説によると、このメロディーはユダヤ民謡に由来するらしく、後年のショスタコーヴィチのユダヤとのつながりからも興味深い)。その簡潔なメロディーに、オケ総員が大泣きする(振り)。
(【2/1追記】昨日購入したCDで確認したところ、ダスビの演奏では、このピアノはロジェストヴェンスキー版の短縮ではなく、映画版の長い展開を持つ版で演奏していた。また、ウソ泣き嗚咽が実に見事だった。)
◆この短いピアノの後は、すぐに大きなワルツ。その後、一瞬だけヴィオラの刻みにコントラバスのピツィカートに金管で不穏になるが、またすぐに軽快なフルートに導かれて、弦楽ピツィカートと金管が明るい未来を導いて(映画本編はここから暗転してクライマクスへつながるわけだが)、再びワルツ(まるでアポテオーズ!)。ロジェストヴェンスキー版組曲ではこの辺りの激しく長大な攻撃描写をカットして、コミューン鎮圧を喜ぶブルジョワの歓喜を、楽しげな組曲を締めくくるフィナーレに仕立てている。ワルツの再現〜フレンチカンカン/行進曲の合体フィナーレは氏の編曲になるものか。オケ総立ちで盛り上がって終幕。素晴らしい夜会だったと思わせるような終幕だった(注:昼公演で、カーテンはありません)。
交響曲第8番ハ短調Op65(1943)
第1楽章 アダージョ
◆全曲の半分近く、30分弱を要する楽章。冒頭、マエストロが長い間を置いた後、低弦と第2ヴァイオリンから入る。理想的な立ち上がりによるヴァイオリンを中心とした静謐な響きが支配する進行の後、弱音トランペットやフルートが絡んで、ヴァイオリンの歌が始まる。
〜3本のフルートがほの暗く告げる2度目の前兆から次第に力感を増していくが、そこまでの室内楽的なオーケストラの細分と緊迫感の高まりは、マエストロのマーラー「大地の歌」演奏を思い起こさせた。
〜金管やスネア、ティンパニを中心に高潮、アレグロ・ノン・トロッポへ加速。ピッコロやホルンの盛んなアラーム、弦楽の跛行的な刻みと木管群の高音と木琴、大太鼓連打などにより次第に巨人の姿が顕わになり破壊的な強圧へ、クライマクスでは金管が一斉に咆哮する。
◆この凄まじいファンファーレについて、私は20年来ずっとチャイコフスキーの「マンフレート(マンフレッド)交響曲」によるものだと信じていて、てっきりダスビのパンフレットか何かで読んだのだと思い込んでいた。しかし、これを書くにあたって他団体のものも含めて過去のパンフレットを引っ繰り返し、手持ちの書籍のページを繰り、インターネットでも検索を繰り返したが、全くそのような記述は見当たらない。私の妄想だったのかと3か月くらい悩んで諦めかけたところ、滅多に行かない新宿の某中古書店で、所有していなかった音楽之友社の『作曲家別名曲解説ライブラリー15 ショスタコーヴィチ』(1993年刊)を発見し、交響曲第8番の項目を見たところ、あった! あの諸井三郎門下の戸田邦雄氏(1948年ごろ公式には日本で初めて12音技法による作品を試作した作曲家である*1)による解説中に、この凄まじい咆哮だけではなく、第1楽章冒頭の2度音型後の動きもマンフレートのテーマと共通の「音の動き」ではないかとの指摘があった。直接の引用のようなものではないし、私ももちろん音楽学的な証明を試みられるものではないが、(チャイコフスキーマニアの私として)魅力的な説である。それにしても、20年近く前に立ち読みした一節をずっと憶えていたのも驚きだが、よくも再び巡り合ったもので、やはり「思えば通じる」ところがあるようだ。
◆演奏に帰ると、咆哮が静まった後のイングリシュホルンのモノローグは、後の第11番の第4楽章の地獄の釜の蓋が開いた場面を思い起こさせた。実に長い長いモノローグとオーボエも入ってのラメント。その孤独に寄り添うように、弦が密やかに歩みを続ける。
〜弦楽のメロディーが回帰してきて濃やかに歌い継ぐが、重い低弦を中心に次第に沈み込むようになり、ホルンとトランペットの小さなファンファーレの後は力を残さず、遅く遅く、静かに消えていく。今M.ショスタコーヴィチ盤を聴きながら書いていてだが、マーラーの交響曲第6番フィナーレとの共通性も感じた。
第2楽章 アレグレット
◆ティンパニの一撃からスケルツォ/行進曲的な楽章が始まる。活力ある表現の一方で、乱雑な部分は全くなく正確な表現で、その意味では端正と言ってよいくらい。どっしりしながら、十分な運動性がある。
〜ピッコロが細かく跳ね回るところから新たな展開を見せる。様々な楽器が続くが、こうしたところでテューバなどもしっかり効いていて嬉しい。弦楽も入って高速パッセージを難なくこなし、主部主題が回帰すると、ムソルグスキー的な酔いどれ表現を思わせる。
〜先のピッコロ主題が弦楽やスネアが入った形で展開したかと思うと、木琴が入ったところで次第に緩んでいき、低回した末にコントラファゴットなども入った後、大きな呼吸でドン・ドドンとティンパニで突如終結する。
第3楽章 アレグロ・ノン・トロッポ
◆ヴィオラ合奏が高速で単純な刻みを繰り返した上に、各楽器の短い響きが重なるが、ここでも機能性が見事(解説の「トッカータ風」という表現に納得)。その後、金管や弦楽に受け継がれていく。
〜やがてトランペットが華々しく、スネアが盛大な行進を刻んでいくが、このあたりさすが実に決まっている。
〜ヴィオラ合奏が戻ってくるが、ここでも木琴が皮肉を加えていく。
〜その後に再び最強奏で緊迫感が高まり、大太鼓・シンバル・銅鑼の強大な響きで次楽章に接続する。
〜第4楽章 ラルゴ
◆提示と11の変奏によるパサカリア。弦楽が次第に静まりながら主題を示し、低回した雰囲気の中でヴァイオリン群が奏でる低音が美しい。弦楽による4つの変奏は、音はどこまでも清澄で美しいが、心理的にはあくまで重くわだかまり続けたように繰り返す。第5変奏でホルンソロここも決まっていていい。第6変奏でピッコロ、第7変奏で3つのフルートのフラッター音、第8変奏からクラリネットが入るが、第9変奏以降にも受け継がれる中でクラリネットの低音のつぶやきは次第に「怒りの日」の死の主題かと思うような不気味さで響く。
〜第5楽章 アレグレット
◆2本のクラリネットの響きを引き継ぎながらそのまま入るが、2本のファゴットが道化のように絡みながら明るい歩みが始まったことを告げる。清澄な弦楽がそれを受けるが、ここでは上昇する風のように昇華された美しさとなる。その後もフルートやチェロが自然と歌い継ぐ。
〜オーボエが対話を繰り返した後、弦楽が加速してうねりながら生気を加えていく。木管と弦楽が「農村の踊り」を奏で始めたかと思うと、曲冒頭で示された2度の動機が意味ありげに繰り返される。フルートやイングリシュホルンが絡んだ後、次第に力感が増して、トランペットが何者かの「復活」を告げる。木管・弦楽もそれに応えるが、そこに再び緊張が高まり、行進が始まり、再びあの強大な叫びが回帰する。マンフレートのように、何かを求めて戦うかのように、叫びが繰り返され、打撃を全身に受け止めて終止する。
〜その後に、帰ってくるのはバスクラリネットの道化だろうか。ソロヴァイオリンとチェロが対話する(今、白鳥と王子を思い出してしまった)が、ファゴットと木琴に茶かされ(例のチャカポコチャカポコの先駆だろうか)て、音楽は静かに解体していく。ごく弱くヴァイオリンのソロが入るが、絶妙の美しさ。これまた弱いピツィカートとフルートの低音のつぶやき、チェロの低回、コントラバスの弱い震えとともに消えていく。そして、長い長い長い沈黙。
◆今回、これまでの人生上の厄を一度に掻き集めたような諸々の事情(大半は自業自得だが、瓦屋根から転がり落ちてきた猫に顔面を直撃された一件だけはどうにかしてほしかった)により、途中まで書いてお蔵入りになっていた感想をまとめてみたが、やはり書いてよかった。今年の演奏会は早くも明後日に迫っているが、きっと素晴らしい演奏を聴かせてくれるだろう。
オーケストラ・ダスビダーニャ第21回定期演奏会の感想〜アンネ・フランク、ウクライナ、日本社会をめぐる理想と現実〜
◆今年もオーケストラ・ダスビダーニャの演奏会に行くことができた。喜ばしからずや。今までにないほどのさらに充実した演奏を聴くことができた。また楽しからずや。音楽としてあくまで上質でありながら、音楽を超えたものを示す。また君子ならずや。
◆何やら久し振りに書き始めたら『論語』冒頭のパロディになってしまった。論語は我が東洋の人道(倫理)の古典であるが、ショスタコーヴィチの音楽もそうした普遍的な道を指し示す域に達していると思う(internasionalen!)。
◆2月11日、すみだトリフォニーホールにその音は響いた。その言葉が歌われた。その一端でも書き留めておければと思う。指揮者はいつもどおり、長田雅人氏、テルミン独奏は濱田佳奈子氏、バス独唱は岸本力氏、合唱はコール・ダスビダーニャ。
川口市制80周年記念「至宝の日本画展」(11/11まで)
◆川口駅前の総合文化センターリリアでは、以前にもモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの手稿展示などの小規模な無料展覧会が行われていたが、今回は市制80周年記念ということで、箱根・成川美術館から日本画約40点の出品。期間が11/11までと短いが近くに住んでいれば、ぜひ見に行くべきところ。
「http://www.city.kawaguchi.lg.jp/ctg/68070006/68070006.html」
◆作家は著名なところでは、平松礼二・平山郁夫が出ているが、個人的には川端龍子門下の牧進・岡信孝の作品を見れたのが良かった。特に、牧進については無知だったのだが、繊細かつデザイン的な正確さを持つ画風に一発で魅了された(で、早速画集を買ってしまった)。
◆また、平松礼二の「路―桔梗が原」、森田りえ子の「秋蒼穹」(ともに四曲一双屏風)も実に華やかかつ壮麗で、一見の価値がある。他にも、東山魁夷や杉山寧作品も出ており、もっと作品を見たいという気にさせられた。
◆最近は、週6日、1日16時間ぐらい仕事をしているので、こういう息抜きの機会が身近にあるのは実にありがたい。
オーケストラ・ダスビダーニャ第20回定期演奏会の感想〜ショスタコーヴィチ交響曲第4番について4ヵ月近く考えたこと〜
Shostakovich Symphony No.4 - Trickster,Tyranny,Mystique,Mahler.
An Essay on Orchestra "Do Svidanya" #20 Concert
◆私にとって13回目のダスビ(オーケストラ・ダスビダーニャ - Wikipedia)定期に臨席したのが3月3日。昨年の3.11後ちょうど1年後の定期演奏会は仕事都合で参加できなかった(当日夜にこちらの記事を読んで、少しく渇きを癒すことができた。オーケストラ・ダスビダーニャ ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」 & 伊福部昭 日本組曲 3/11 ①: アリスの音楽館)ので、2年ぶりの定期だった。会場はすみだトリフォニーの大ホール、いつものとおり3階バルコニー席、今年は右側で聴いた。
◆3.11を挟んで2年ぶりのダスビ、しかもメインが第4番だったということで、自分なりに消化するのに3ヵ月近くかかり、ようやくオンラインアンケートに回答。それまでに、ショスタコーヴィチの交響曲全集約2周(第4番だけは20回近く)とミケランジェロ組曲、弦楽四重奏曲全集といくつかの室内楽曲・ピアノ曲、ムツェンスクのマクベス夫人を手元の音源で聴いて、ようやく第4番について、自分なりの位置づけがしっくり定まった気がする。