私たちの時代の「学芸」

◇だいたい我々の世代(31〜35歳、団塊Jr.としておこう)の一部の人(かつての私)は、下手に「学問」に囚われているのがいけない。これら良識的な人々の中には、あるいはカウンセリングや社会学などについて、玄人はだしの知識を持っていたり、あるいは、少なくともそれを持とうとしている人もあるかもしれないが、そんなものでは現実を変える「力」にはならない。素人はどこまで行っても素人である。
◇現実を動かすのは、TVを通じて目の前に実証されている通り、どちらかと言えば細木数子の方だ(あ、ギョッとするね。知らない人もいるか?)。カウンセリングに意味があるのはもちろんだが、一般世間人にはカウンセリング以前の「一喝」が必要なのが現実ではないか。日本人が、いやもう少し広く日本社会に生きる人が、現実に「幸せ」を追求する上で、カウンセリングと細木数子とどちらが真に有効なのか、一度まじめに考えてみてよい。細木を単なるバラエティーの一キャラと笑っていられるかどうか(まあ、それとしても面白いが。いろいろ叩かれてるが、何より現実の存在感が勝ってる)*1
◇かの鎌田柳泓(カマタリュウオウ、1754−1821)大先生(石田梅岩の弟子の弟子)も「学問はできる時にせよ」と言っておられる。一般世間人はそうして生きるべきではないのか? 少なくともネオ階級社会においては、それぐらいの「したたかさ」が必要ではないのか。この度、文部科学省フリースクールを公認して、近代の「学校」時代が終わりを告げようとしているが、そもそも一定の方式に則って「学ぶ」ということそのものが、社会規律の枠の中に安心して収まるということであり、それが既成事実と利権構造に安住する人々を生んでしまう。もちろん「学ばない」社会は単なるアノミー(無規律・無秩序)であって、そこに希望はないけれど。
石田梅岩(イシダバイガン、1685−1744)大々先生は、当時の国家エリートであった武士階級は「大盗人」であり、(福沢諭吉をまつまでもなく)独立自営の町人階級こそ本当の「士(社会エリート)」であると喝破され、辻立ちしてでも「自分が自分で学びたいように学ぶ」精神を伝えようとされた(その信念を公刊するのに、武士政権からの弾圧を受けないよう、弟子たちと入念な戦略を練られたのである)。先生の『都鄙問答』(1739刊)こそ日本が誇る社会思想の大古典と言えると思うのだが。アカデミズムに囚われているインチキ学者(東大教授を筆頭とした「文字芸者」、いや数理科学に通じた人は除いてもいいが)たちには、この見解は過激すぎて理解できないのである。*2
◇昨日書いた縁で、大宅壮一全集を見つけてきた。ちらほら見ると、やはり大したものだ。学問はどうせそれに向いた人たちが勝手にやるのだから、一般人は1人でも多くジャーナリスティックに騒ぎまわって、学者やエリートや権力者たちが社会に害悪をもたらさないよう攪乱すべきだ。
◇ただし、その時、梅岩先生も言うように、私たちは本気で善人でなければならない。悪意を持った人間が大きな顔して騒ぎ出しているのが、今の日本の社会だということ、私たちはさんざん懲りているところだ。小悪人たちをこの世から放逐せよ。悪を滅ぼすのが本当の宗教心・信仰心である。私は悪を怒り、弾圧する。原理主義だと言ってもいい。ただし、私はいかなる暴力・テロ行為も否定し、言葉以外の武器を持たず、一個人として他者と共存することを望む。また、私はロベスピエールでも、ヒトラーでも、スターリンでも、毛沢東でも、ポルポトでもない、ただの一介の弱々しい文士まがいであるから、「力」を持ちすぎて自分に逆らう思想の持ち主を大量虐殺、なんてことは起こらない。だからどこまでも愚直に、横暴でいいのではないか? 
◇「革命」の夢は去っても、私たちはこのようにして「力」を分有するべきではないか。たとえ、そこに新しい階級社会が現出するとしても、私は私以外の何者でもなく、私として生き、次の世代に生を託し、死んでやがて無名となる。それ以外の生き方など今の私には想像もつかないのだ。
東浩紀北田暁大の現状認識は不勉強な(部分的にしか読んでない)私には理解しかねるが、そこはかとなく「よくできすぎ」のいかがわしさを感じてしまう。これは単なる感想であり、学問的、評論的によく反論できるものではない(くりかえすが、私はいいかげんなので)が、あえて発言しておく。
◇さらに言えば、文系アカデミズムの陥りやすい通弊は、井沢元彦氏(!)*3に倣って(勝手にアレンジして)言えば、①一般人の常識無視(過去の日本史ならば「呪術的要素」)、②滑稽なまでの典拠主義(歴史で言えば「史料主義」)③権威主義である。要するに、自分の頭で考えました! というのはダメで、①これは天地がひっくり返っても正しいとイデオロギーだ!とごり押しするか、②こんなはっきりした証拠がありましたと人を煙に巻くほど細かい証拠を書き連ねるか、③誰か(外国の)偉い人が言っていましたと印籠を引っ張り出すか、どれかでないと信用しないというものである。要するに真剣な議論を回避して、学会で居眠りと饗宴ならぬ懇談を楽しみ、自分の地位に安住し、前途有為な若者に道を誤らせようとするということである。
◇私たちが本当の意味で考えるためのの1つの方法として、いまや流行らなくなった本格的な文芸の世界に触れることをお勧めする。文芸はどんな小説でも詩でも、フィクションでありインチキであり、そもそも妄想の産物である。さらに遡れば、地球上で人間だけが持っている(と思われる)「言葉」とは、現実を現実ならざる妄想(それを物質的に説明できるものなのか、私は知らないので茂木健一郎氏にでも聞いてくれ)にすりかえる呪術・詐術の類である。人間、人をだます、出し抜く時ほど頭を使う時はないと言われる。それなら、自分が正しい面(づら)をしている学術論文の類やその出し汁の類を読むよりは、最初から私は嘘だと表明するものと付き合った方が人が善良になるというのは理の当然ではないか。フィクションの中でも、いかにもバレバレのを見ると白々しいからなるべく「迫真」的なのを読もう*4
◇世の良心的な人々の中には、北欧の良心的社会科教科書を翻訳したり、アメリカの法教育に学ぼうとか(以上立読み)、せっせと仕事に励まれる方がいて、それはそれで貴重な努力なのだが、それが学校現場まで降りて日本の大勢になれるかどうか、どうも心もとないのである。それよりも、2000年来(中国で? 日本こそ「中華」=文明の最先進国、というのが近世日本の原動力の1つだが)の儒教の基本に立ち帰って「修身」(戦前・戦中の美談教科書ではない! 要するに自己の確立じゃいな)→「斉家」(家庭の幸せ。自分で稼いで食いつなぐ)→「治国」(社会秩序の形成努力)→「平天下」(平和戦略による国際秩序形成努力)という太古来の「常識」を再認識するべきではないか? 「常道」以外に歩む道なし! 
◇よって、儒教は、学術的な意味での「学問」ではなく、一個の「宗教」(最初からそういう信念・常識の体系だということ)である*5。もっともだからこそ、(カトリック同様に)儒教は自由な文芸を殺す面があるけどね。これはまだよく考えていない*6
文部科学省が、何の魂胆でやったのか知らないが、90年代?に大学院を盛んに作らせた結末が、学問し過ぎで頭がパア(私が筆頭。あ、し過ぎるほどしてないか。ただ、思い入れだけは強かった。最初からバカなんだ、うん。)で仕事もできない人間の大量生産ではないか。かくもいかがわしい「学問」を捨て、生活に帰ろう!
◇私の立場に一番近いのは、宮崎哲弥氏かと(はた迷惑なことに)勝手に思っているのだが、どうせ世の中の交通整理をするのなら、これぐらい?激烈にやってほしい。

*1:勘違いしないでほしいが、精神医療や各種の専門的な相談窓口、治療的グループ活動などは現代社会に必須のものである。要するに、ここで問題にしているのは、新設の臨床心理学科にホイホイ入ってしまうような学生(そうでないしっかりした人々がもちろん多数であることを期待する)や、何となく心理学や社会学を学べば自分の問題もついでに解決してしまうのでは?と期待してしまうような器の小さい人たちのこと。以上、経験者は語る。自己反省なのだ。

*2:ちなみに、石田梅岩とその弟子たちの思想と実践について、現状で(私以外で。僭称に過ぎる?)最も正確にその射程を見抜いているのは、石川謙氏の大戦中の大著(これ自体体制内部からのショスタコーヴィチ的抵抗の書である)『石門心学史の研究』(岩波書店)である。一番近いところでは、『季刊日本思想史』№65(2004.4)今井淳・山本眞功編「特集・石門心学」がある。…が、私がまだ読んでないや、あはははは。先生、ごめんなさい。

*3:逆説の日本史①逆説の日本史1 古代黎明編(小学館文庫): 封印された[倭]の謎の序論。

*4:別に「観よう」でもいいのだが、私が多少観たのはブニュエル?くらい。

*5:90年代の「儒教は宗教か?」問題を論じた本のまだるっこしいこと!

*6:上記の鎌田先生は『水滸伝』好きのおじさんだったけどね。