「紋切り型ニュース」の馬鹿馬鹿しさ(「履修不足」と「参院1票の格差」を事例として)

◇連日報道され(消費され)ている、高校の「履修不足」問題、少しでも高校運営の内情に通じた人なら、こんなこと(科目の「読み替え」など)は、ずっと以前から常態化していたことを誰でも知っているはずだ(ある新聞投書では、確か30年以上前からあったと指摘していた)。それを今になって、何か新しい問題が起きたかのように騒ぎ立てるとはどういう了見なのか。また、「不公平」というなら、今までの脱法常態化と今年補習等を強制される高校生の間の不公平を問題にすべきところだ。*1
◇結局、問題の根源は、脱法が常態化するような、現場の実態にそぐわない「学習指導要領」なる不適当なカリキュラムを、その法的拘束力という権力を維持したいがために漫然と作り続けてきた文部科学省自体にある。そしてまた、その教育上無内容に等しい「学習指導要領」の最大の効果といえば、それに基づいて莫大な「検定教科書」の需要を作り出すことである。この検定教科書は、例えば上の「科目の読み替え」の場合には、1回も授業に使われることなく、生徒が1ページも読むこともなく捨てられるにもかかわらず、立派な「商品」として流通している。
◇さて、文部科学省の仕事の何割がこうした不毛な循環を作り出すために行われているだろうか。その害悪を被る若き生徒諸君は、こうした不毛を体験するにつけ、学校の中で気力を失い、いざ社会に出たときに使い物にならなくなっている、そうしたことが「教育」として行われていることによる社会的な損失はいかばかりであろうか。
◇こういう馬鹿げた事態を放置しておいて、今になってやれ「補習しなければ駄目だ」とか「救済策を」だとか、間の抜けた議論をしている輩、それを報道すれば社会的使命を果たしているのだと錯覚しているような報道機関、そんな連中に現今の「教育」の問題を解決する力があるとはとても思えない。
◇繰り返すが、こういう事態は「馬鹿げたこと」だ。取るにも足らない、「社会問題」以前のことだ。そして、こういう「馬鹿げたこと」を乗り越えることができるのは、この日本社会の諸個人しかいない。まず、こうした「馬鹿げたこと」から手を切る意思を示すことが必要ではないか。
◇さて、1カ月ほど前の旧聞に属するが、「参院1票の格差」についての最高裁の合憲判断のニュースがあった。報道にいわく「5.13倍の格差で、違憲にならないとは、云々」。参院1票の格差訴訟がいつから始まっているか調べてもいないが、私の記憶では少なくても15年以上は同じような裁判と、判決と、報道と、国会での審議が繰り返されいる気がする。その期間だけをもってして、これも私の範疇では「馬鹿げたこと」に属する。はっきり言って茶番である。しかも、実に莫大な社会的コストをかけた大茶番劇である。
◇これには年来私なりの持論があったのだが、今回新聞紙上でようやく同じ意見に出会った。『毎日新聞』掲載の谷藤悦史・早稲田大学政治経済学部教授のコメントである。見出しが「位置づけ明確に」。要するに、参院アメリカ上院(各州の議員定数2人)と同じように地域代表を選ぶ議院として位置づけて、衆議院と差別化すればよい、という意見である。全く同意。
◇「1人1票=平等」という原則は、選挙制度として当然のものだが、これだけが民主主義の原理ではない。中央と地方の「地域格差」が問題とされる現在、地域の発言力が人口の多寡だけで決まるという、それこそ馬鹿げた非民主的で不平等な状態の防止のために、参議院には地方の代表を一定数集めます、という位置づけがあってもいいのではないか。今の参議院議員もそうして選ばれてきたと言ってしまえばそれまでだが、少なくとも「衆議院のカーボン・コピー」という汚名を返上する、1つの根拠としてもいいのではないか。
◇谷藤氏のコメントの結びは以下の通り。「日本の政治は参院の位置づけという根本問題を放置してきたが、その不作為こそ問われるべきだ」。そう、その通り。根本問題から目を逸らすのは、いいかげんやめよう。

*1:【11/8追記】11/7発売の『週刊SPA!』掲載の坪内祐三氏・福田和也氏の「これでいいのだ」では、同趣旨の議論があって少々我が意を得た感じ。ところで、この対談によると、ゆとり教育の「戦犯」扱いされる寺脇研氏は、ポルノ映画通としてその道では名を知られる人だったとか…。