方法7「地味なオーケストレーションと渋い作風に慣れる」

ミャスコフスキーは、本当は他のロシアの作曲家たちと同じく、親しみやすい作風で曲を書くことができる(いわゆる「社会主義リアリズム」にも、その気になればもっと同調できたはずだ)。しかし、「交響曲」に関しては、非常に禁欲的な作風、抑制したオーケストレーションを貫いている(ブラームスが4曲の交響曲で第4番第3楽章だけにトライアングルを使ったように。例外は、タイトルに示されるように、第22・23番くらいか)。打楽器、あるいはハープのような追加楽器は、本当に必要と思われるところだけに使われ、他はひたすら弦楽・木管金管のみで終始する(曲のクライマックスであっても)。そのため作風に慣れないと奇妙に退屈な音楽に聞こえてしまう。これはむしろ、私たちが今まで聴いてきた音楽が華々しい管弦楽法を使い過ぎているのである。
◇また、確かに作風が単調に聞こえやすいのも事実で、例えば交響曲アレグロ主題は下手をすると全部同じに聞こえてしまう。「チャチャーチャラララチャーラ、チャチャーチャラララチャーラ」というアレグロのミャスコ節は、伊福部昭ゴジラリズムみたいなもので、これなくしてはミャスコフスキーとは言えない要素であり、ひたすら繰り返される。
◇しかし、このミャスコリズムのアレグロ、ロシアの大地の広大さ、アルカイックな均整美、ロシアの祭りとパロディといった要素さえ理解すれば、この27曲の交響曲(特に中後期の17曲)が成している巨大な山脈に分け入ることができる。その入り口まで来て引き返してしまうのは実に惜しいではないか。スヴェトラーノフマーラー全集も感動的だったが、ミャスコフスキーはある意味でそれを上回る全集なのだから。