「通り魔」ないし「復讐」について

◇ちょっと言っておきたいのだが、何か自分が抱えている不満や孤立感のようなものを起因として人の命を奪うに至るというのは、利己主義の最たるものであり、自ら「人の道」を外れ、「畜生」以下に成り下がる最低の行為である。こんな当たり前のことを書くのは、当然「大外道」たる加藤智大自身もさることながら、それに続く低劣な者どもの「鬼畜」に類する所行の数々が、私を心底から驚き慄かせるからである。
◇こうした「非人間的」な行為を行った者は、正に「人間」から除外され、「人外」に放逐され、「妖魔」のごとく怖れられる。「通り魔」という名称は陳腐化してメディア上を日々流通しているが、この言葉の裏側にはその場に居合わせた人々が直覚した、言いようのない恐怖そのものがべったりと貼り付いていたはずである。
◇よく言われるように「日本は法治国家である」ので、形式上このような行為をした「外道」「鬼畜」に対しても刑事罰を宛がう上で最低限度の「人権」が保障されるのであって、その事実は私たちが近代的な「理性」と「寛容」とを持ち合わせていることの証左とはなるが、これらの者どもが犯した「罪悪」を些かなりとも、羽毛一片ほども軽くするものではない。
◇そうした意味で、東浩紀が発言したように、これを「他者の恐怖を自らの目的達成のための手段として用いる」という意味で「テロリズム」と形容するのは正確だと考えるが、「これは思想事件だ」という妄説を吐く佐藤優と違って加藤某の書き込みなるものに私は何らの価値も認めない。むしろあのように表現された孤独さは日本社会の相当数の人間が実感している実に「陳腐な」ものだろう。大澤真幸がまたぞろ「酒鬼薔薇」などを持ち出して分かったようなことを言っているのは恥ずべき行為というほかない。
東浩紀の記事「hirokiazuma.com」)
佐藤優雨宮処凛の対談「秋葉原事件を生み出した時代」『中央公論』8月号*1
大澤真幸の記事は、確か『週刊東洋経済』のThe Compass欄)
(【8/4追記】なお、『諸君』9月号*2仲正昌樹の「アキバ事件をめぐる『マルクスもどきの嘘八百』を排す」が出て、さらっと読んだところ、東の記事も加藤の犯罪原因を社会的な「格差」に求める「下部構造」還元論じゃねえか、というような批判的見解を述べていた。)
◇陳腐だからこそ、共感を集めやすい。「俺も不安だ、不満だ」「俺が不幸なのは親のせいだ」「誰も俺の話を聴いてくれない」「何のために生きているか分からない」。こんな悩みはどこまでも陳腐でしかない。少なくとも私にとって、そうして自暴自棄になった人物が殺人を準備・実行していく心理的な過程を想像することは極めて容易であって、何らの研究を要しない。
◇誰でも共感できてしまう。真似をする輩も少なくない。しかし、普通、人は殺さない。ふざけた犯罪予告を思いついても実際にはしない。予告をして逮捕されるのは、愚かであり、軽率である。人の命を奪えば、自分が「人間」であることすら否定する結果になる。
◇こうした事柄の事件としての重大性は、その行為の代償の大きさの衝撃だというほかはない。死者はもはや何も感じることすらできないのだが、縁あった生者に巻き起こる悲しみの渦は無縁の私の心すら波立たせるものだから。こうした悲しみの渦を巻き起こすものを、古来「人間」と区別して「鬼」といい、鬼にふさわしい棲家としては「地獄」という別世界を用意したわけである。
私がここで、罪人を蔑視し数々の罵倒を加えるのは、そもそも「人間的な善」または「人間性」なるものは、日本列島の古人たちがほぼ10世紀〜18世紀にかけて、仏教を手がかりにしながら「悪」を名指しすることで、対極の「善」を浮き彫りにしてきたものであり、そのことによって日本社会の比較的高い「倫理」が保たれてきたはずだ、という認識があるからである。今の日本でこういう議論を扱う人物としてせいぜい細木数子ぐらいにしかお目にかかれないのはかえって不思議なくらいである。
◇こうした、自己と異なるものを徹底的に排除する「近代的な」語り口の嫌味さはポストモダンの言説で中和されるが、だからといって近代後に近代の倫理観以外の何か根源的な新しい倫理が生まれたわけではない。養老孟司が言うように「新しいものが何も生まれていない」ことはニュースにならないが、(自己の利益のために)「人を殺すな」という事柄について、何かが新しく起こったわけではない。
日雇い派遣」原則禁止などの動きが出ることで、こうした人外放逐の事例が減るとすれば僥倖とは言えるが、本来こうした事例が出る前に過ちを改めるに至らなかったことを為政者は恥ずべきであると言わなくてはならない(この点、「若者の声に真剣に向き合え」という東浩紀の2番目の記事と同じ。そして、その若者の声とは、むしろ犯罪に向かわずに踏みとどまっている多数の若者の痛苦の声である)。私にとって、秋葉原事件の思想的な意味とは、それ以上でも以下でもない。
東浩紀の記事「http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080621/crm0806210821004-n2.htm」)
◇また逆に、「復讐」という語を私は貶めたくない。この言葉の高潔な意義からすれば、「義理」のために自らの命を賭して行う行為だけを「復讐」と称しうるもので、自分の体面がどうこうしたというような被害妄想的なところに発する行為は、「復讐」と称するのすら「汚らわしい」。つまり、曾我兄弟の仇討ちから『なぜ君は絶望と闘えたのか』で描かれたような本村洋氏の決死の覚悟*3までと同列に語るような「復讐」という言葉は犯罪者に使用を許さず、このような私憤からする行為はぜいぜい「意趣返し」「逆恨み」の名辞を与えるのが適当ではないのか。
◇さて、乱暴なことを書き連ねたように思うが、こうした「正名」をする人はあまりいないようなので、また随時論じていきたい。

*1:中央公論 2008年 08月号 [雑誌]

*2:諸君 ! 2008年 09月号 [雑誌]

*3:なぜ君は絶望と闘えたのか