枡野浩一氏の職業歌人論に答えて

再び石田衣良と文芸について(+枡野浩一氏のコメント) - ピョートル4世の<孫の手>雑評の続きです。)
◇まず多々失礼にかかわらず対話していただいて感謝。私は傍観者のままできましたが、「物書きの仕事」という言葉遣いから伝わってくる実感について何がしか感じるところはあります。
◇例の絡みと枡野さんの返答を見たときから考えだしたのですが、「職業歌人」という言葉で、10年以上前に読んだ谷川俊太郎さんの「世界へ an agitation」*1を思い出しました。
◇こうあります。

詩人はその一生を如何にすごすのか。彼は一篇のすぐれた詩を得るために一生を苦吟してすごすのではない、彼も常人と変ることなく、その一生を生活してすごすのだ。彼が詩を書こうとする時、彼は一篇のすぐれた詩、などという抽象的な観念のために書くのではない筈だ、彼はただ、生活しようとしているのである。その詩を書くこととで人々とむすばれ、出来れば一日の生活の資を得たいと願っているのである。

これだけだと単に生活のために書くのかと誤解されるだろうか。またこう言っています。

世界とその中での人間の生活、私もまさにそのために詩を書いているのだ。一人は旋盤をまわし、一人は畠を耕す、一人は洗濯し、一人は詩を書く、そうして我々は生かしあっている、それが人間の生活というものではないか、それを離れて、詩には如何なる抽象的な価値も意味もありはしない。詩が鍋釜と同じものだとは思わない。だが、生活し続けてゆく以外に、人間にどんな生き方が残されてるだろう。詩人ももはや放浪者ではあり得ず、英雄でもあり得ない。

十分検証できないが、時代背景はあるにしても、今でも瑞々しい発言に思える(初出は「ユリイカ」1956年10月号)。当世プロ論ばやり(?)ですが、江戸期なら「職分論」と言うところ。
◇私は結局(今から思えば妥協して)別の生活へと進みましたが、現在はシャレでなくニートみたいなものです。何であれ「失望されたり見直されたり」しながらでも続けることの大事さは、今痛いほど分かります。
◇それにしても「詩のボクシング」第1回?(谷川俊太郎vsねじめ正一。最終ラウンドの谷川氏の即興詩の凄さはまだ覚えてる)はBSで見たのだが、その後詩を離れてしまって、枡野氏とすれ違ってしまっていたのは残念。でも今回対話できたからいいか。

*1:谷川俊太郎詩集』思潮社1969またはエッセイ選『沈黙のまわり講談社文芸文庫2002沈黙のまわり 谷川俊太郎エッセイ選 (講談社文芸文庫)所収。