【4:「大きな物語」の機能不全とシミュラークルの全面化】

◇こういう認識を背景にすれば、1970年前後に「大きな物語」が終わった(機能不全)というのは、理解しやすい。「大きな物語」とは、具体的に言えば、「近代国家」のイデオロギー(「国民国家」の一体感=国家目標にすがる、日本なら文明開化や天皇制や高度成長/「革命」=国家の作り直しに希望を託す)のこと。そういう歴史的な「大きな物語」に乗っかれば、自分が生きる「意味」も分かるというのが、「近代」モデルの生き方だった。それに対して、今やそんな分かりやすい、皆が信じる「物語」はどこにもない。というのが、東氏の基本的認識である。
◇この「近代」モデルは、宗教が力を失った(「神は死んだ」)20世紀に、人々が学校などの社会システムの中で、それなりに安定して生きる道を確保していた。しかし、いまやそれも無効になって、人々はバラバラになって生きている、ということが言われている。これは、もともとリオタールが言い始めたわけだが(p44)、日本ではもはや誰もが日々実感するところ。
◇で、「シミュラークル」なる用語(ボードリヤールが使ったもの。p41)は何かというと、オリジナル(本物)でもコピー(偽物)でもない、中途半端なまがい物(?)のこと。それが「全面化」するというのだから、ポモ的現在においては、どこにも本物はなく、すべてが「中途半端なまがい物」なのである(東氏は、商品の例としては、コミケ的、メディアミックス的な2次創作を挙げている)。
◇これは私たちが、いくら「純文学」と頑張った作品を読んでも大して面白くもないし感銘も受けないとか、この人は凄い大人物ですと言われても近寄って「ただのおじさんじゃん」と思ってしまうとか、という感覚に結びついている。これも、現代人の多くはしょうがないと受け止めていることかもしれない。
◇要するに、「大きな物語の終わり」と「シミュラークルの全面化」は、ポモ社会では表裏を成して既成事実になっている。ただ、こういう状態というのは、あまりに相対主義的で、(何が正しいのかわからない!という)人々の不安を呼ぶところがある(例えば、自分も偽物なんじゃないか? 「本当の自分」はどこ? …というような不安*1)。生きる「意味」を見出せないために、自尊心・自己信頼が揺らぐわけである。そういうところにつけこんで、トンデモ物語を捏造して人を殺したオウム真理教や、「国家」の物語を作り直して誇りを回復しようという「新しい歴史教科書を作る会」などの運動などが出てくる(さすがに一緒にしたら怒るか。失礼)。
◇また、こういった「何でもあり」状態は、一見自由なように思えて、人を本当は不自由な状態に追い込むものではないか、という問題がある(少なくとも2つの水準で)。この「自由」の捉え方を巡る難しさ、東氏はずっとそのことを問題にしてきている。