【3:安倍政権の混迷―その心理と論理】

◇私は、「頭ではおかしいと分かっていても、体が反応してしまう小泉政権」(坪内祐三)をあえて支持することを、積極的かつ両義的に表明し続けていた。しかし、安倍政権については発足前に一度間接的に触れた*1だけで、言及することそのものを保留してきた。この状況に至ってみて、改めてその態度は正しかったと思っている。
小泉政権の後を受けて、もしこの政権が「実務政権」に徹するならば、その基盤は磐石であり、相当の仕事を成し遂げる可能性がある、と私は考えていた。また、世間一般からの発足当初の高い支持率もそこに期待したものだったと考える。
◇しかし、実際の安倍政権は佐田玄一郎行政改革担当大臣辞任から始まって、松岡利勝農水大臣自殺を頂点とし、その後任の赤城徳彦農水大臣に至っては自分の言葉で話すことすら許されていない半大臣でしかないようだ。これで選挙前に支持率が伸びる方がおかしい、といった状態ではないだろうか*2
◇7/8(日)の、NHKの生放送特番『“政治決戦”迫る〜参院選 攻防の焦点』で扱われた、民主党が相当自覚的に「年金問題(の対応への不信)」を争点化した様子を見て、6月半ば、ちょうど関東の梅雨入り宣言後の暑い日ざしが照りつける日に、じわりと「これは何かが動くかもしれない」と思った直観を思い出した。
◇しかし、その後の安倍政権の混迷振り、選挙情勢の加熱ぶりは想像を超えている。野党が選挙向けに焚きつける問題はいつでも必ずあって、国民の大多数はそうした手口は半ば無意識に見抜くものだと思う。しかし、今回は内閣の諸々の問題への対応のまずさから、流れは野党に圧倒的に有利になりつつある。

「キャラクター設定」の問題

◇なぜ安倍政権はここまでの混迷に立ち至ったのか。その原因としてまず思いつくのは、安倍氏の「キャラクター」の問題である。「小泉」の後で誰が首相になっても、あの「小泉」と比較されて損をするのは当然なのだが、安倍首相は「戦後レジームからの脱却」なるそれ自体意味不明の理念を掲げたものの、キャラクターでのマイナス面が大きすぎて、政権はその理念とともに自壊しつつあるように思う。
◇そのマイナスとは、ネット上で早くから画像的に中傷されていたように顔がヒトラーに酷似しているとかそういったレベルで済んでいればまだ良かったのだが、決してそういうことではなく、むしろ政治的なキャラクターの「設定」の問題である。
◇先日、公示に合わせた各党党首出演のニュース番組を見たが、安倍首相はディベート的には無類の強さを見せる。議論の進行に合わせた論理の展開も巧みだし、要所要所で説得力がありそうなデータを誇示し、相手の矛盾点を指摘して実にスキがない。しかし、その一方で、他の人間が首相を批判しているのを聞く態度は不遜なにやけた笑みを浮かべて聞き流す態度で、はっきり言って一国の首相としては軽量で下劣な人物に映る。
◇一方で、首相の定例インタビューでは、非常に評判の悪い「カメラ目線」。誰かが「壁を見ているよう」と評していたが、視線がカメラの焦点とは微妙にズレて、眼を動かしているわけではないのに宙吊りの不安定な感じに与える。これは、そもそもの安倍首相のキャラクター的な古さと「2001年体制」下の首相イメージとの齟齬が大きすぎるため、かえって過剰に演出を意識した結果だろう。
◇また、同じくインタビューの口調は、力強く断言するようでいて肝心なところは早口に流れ、時に口の形までゆがんで非常に見苦しく聞きづらい、という悲惨な様相を呈しているように見える。
◇一応断っておけば、これは首相を揶揄・中傷しているのではなく、その外面に現れるものが本来の地力以下になってしまっているという指摘である。念のため。要するに、何をやっても「小泉の下手なマネをしているただのおじさん」に見えてしまう、ということである。
◇これが単に「キャラクター」の外面的特徴の面だけに限られれば、それは失望をもたらすものであっても、不信につながることはないだろう。ところが、安倍首相の行動面、つまりは政権の運営に見られる「キャラクター」がまた問題含みだと感じられる。安倍首相が実際に政権を担当して印象付けたのは(当初の中韓との関係改善を除けば)スキャンダルしか思いつかないくらいである、と言い切ってしまいたい衝動に駆られる。
◇小泉も、当然ケレン味はたっぷりだったし、強引な手法や詭弁には事欠かなかった。しかし、それでも小泉の場合には、ある種の「本気」を感じさせた。彼が「感動した!」と叫ぶ時、単なる演出とは思えないところがあった。
◇小泉の「キャラクター」が、いくらか時代の要請に適っていたのは、その前史としての1990年代の停滞があったからである。経済の1940年体制の病根は、至るところに腐敗構造を生んでいた。しかし、政治は1955年体制の下で、田中角栄的なものと野党との癒着にまで至り、当面する世界的転換を前にして何ら有効な行動を取ることがない(または致命的に遅れた反応しか起こさない)ように思えた。これらの旧体制は、宮台真司が示す用語なら「権威主義的コーポラティズム」と対応する*3
◇少なくとも、小泉純一郎が示す方向性は1940年代からの「権威主義」とは無縁に見えた。超国家主義とも、占領下とも、冷戦とも、高度成長とも、バブル的腐敗とも違った、過去の負の遺産を切り離して新しい時代に向かっていく力を感じさせた。
◇さて、一方で安倍首相の取った政治行動はいかなるものだったか。小泉や青木幹雄の影響力からの自立を意識しているのかもしれないが、政権・与党を動かす中川秀直幹事長や塩崎恭久官房長官の動きは、能力がないわけではないだろうが、人望は感じられず、強引な部分だけが目立つ印象を与えている。

「2001年体制」の首相としての評価

◇小泉の権力の基礎には、人事権の活用があったが、安倍内閣はそこで失敗を重ねた。内閣の人選には、前政権からの置き土産もあったような報道にも接したが、それにしてもスキだらけだった。また、大臣の問題が明らかになった後の対応もすべてが後手後手に回っていた。
◇その繰り返しは、(当初はメディアが煽っている感があったにしても)次第に政権の危機管理能力への疑問の念をつのらせていった。小泉人事が時に思い切った更迭をも辞さなかったのとはあまりに対照的だった。
◇まして現職閣僚の自殺者を出すとは、誤用ではなく正に「慙愧の念に耐えない」ものだろう。もっとも私は、安倍晋三が「戦後レジームからの脱却」を本気で考えているのなら、久間章生防衛大臣こそ徹底的に守るべきだったと思っているのだが(後述)。
◇政策的には、防衛省の設置や着実な財政再建の取り組み、あるいは私がたまたま新聞で気づいたところでは、国民生活審議会へのオンブズマン機能付与方針(5/27『毎日新聞』朝刊)など、10年前なら立派な改革政権だと言えそうな政策を実施している。
◇一方で、教育3法などは、かなり旧時代的な左翼アレルギーに基づいた内容であり、私のような文化保守から見ても、現今の教育に対して何らの積極的寄与をもたらさないのではないかと疑わざるをえない内容だとしか言いようがない。
(それに関連して、教育再生会議の「道徳教育の教科化」の議論などは、これを考えた人間が「道徳」「教育」のイロハのイが全く分かっていないのではないかと思わせる。これについては、いろいろと書きたいことがあるわけだが、「『たまきはるいのち』を奪うものへの抵抗(その3)教育の論」の主題の1つなので、そちらに譲る。)
◇結局のところ、安倍政権が失態だらけで、その指導力のなさを国民の前に繰り返し誇示する結果となった理由は、やはり小泉純一郎の後継だったことに起因する部分が大きいだろう。「2001年体制」では、首相の指導力を発揮できる条件が整った一方、その「選挙の顔」としての役割が期待されるようになる。そこに必要なのは、当然「国民の支持」である。
◇安倍政権は、成立当初から過剰なまでに「国民の支持」「選挙での勝利」の獲得に執着して運営されてきた。その政権の土台にある強迫的な心理が、一方での様々な政権が直面する問題の軽視、それと裏腹の焦りと強行を生んできたのではないだろうか。
◇小泉があくまで自然体に、新時代にふさわしい「権力者」として振る舞ったのに対して、安部が力強い指導者として振る舞おうとするときの姿は、それは国民の目にさらされていることを前提とするがゆえに、硬直して、ひどく不安定で、基礎のない脆弱な構造物を思わせるのである。
◇むしろ安倍政権にはもっと違う可能性もあったはずである。衆議院での圧倒的な勢力、対外関係改善を背景に、もっと寛大にことを処し、実務的な政権運営ができたはずではなかったか。しかし、実際には神経質な強迫観念と強迫行為を思わせる行動が一定数の国民の支持を離れさせた結果になったと言えそうだ。
◇そうした状況から言えば、「年金問題」も一つの具体例に過ぎないのであって、その対応が常にあまりに単線的な選挙対策として、前倒し、前倒しで実施、または方針決定されていくさまは、現今の安倍政権の自律性喪失を端的に示しているものと言えるかもしれない。
◇一応、根拠らしいものを示しておけば、公示後の世論調査でも、安倍首相の最近の言動で印象が「悪くなった」が45%に達している*4。この失点は、対応のあり方次第ではずいぶん変わったのではないか、と素朴に思う。

小沢一郎は何を目指すのか

◇以上は、選挙の公示後に表に出す文章としては、あまりに中立・公平を欠く書き方だったかもしれない。それをフォローするわけではないのだが、私は小沢一郎に対しても抜きがたい不信感を持っていることを表明しておく。
◇「小沢神話」の一つとして、「選挙に強い」というものがあったが、それは旧来の田中派的金脈を前提とした上で、どこにどれだけのカネを巡らせば効果的に票につながるか、といった事務的経験に由来するものだったらしい(田崎史郎『竹下派 死闘の七十日』*5)。
◇90年代以降の小沢の動きを見ていても、消費税の税率設定や社会構想のニュアンスなどが選挙の際に語られる場合も、一貫したヴィジョンに基づくものと言えるかは疑わしい印象がある(こちらについては、ほとんど論じる用意がないので、先日、早野透『日本政治の決算』を読みつつ、当時の雰囲気を思い出した主観に過ぎないが*6)。
◇ただし、上記の田崎氏は、小沢の「改革」を権力闘争のうわべを飾るものに過ぎないと専ら否定的に見ている。それに対して、私は、その「痛みを伴った改革」のプランそのものはその後の改革論議の枠組みを規定したし、その原動力としては本気で改革を実行しようとする意図はあったのではないかと思う。
◇また、菅直人などの民主党の指導者については、能力はあると考えるが、そのやや左ブレしやすい政治理念には、もはや全面的な信頼は置けないように感じている。
◇さて、しかし安倍政権の支持率が下がったといっても、やはり旧自民党的末期政権に比べれば、十分高い支持率が続いている。ここから予想される選挙後の展望については、【5】で触れることにする。

*1:松本健一氏が「美しい国」を批判した文章について触れたもの。「いまや懐かしいキャラたち−小泉、細木、ホリエモン−と「倫理道徳」の話 - ピョートル4世の<孫の手>雑評

*2:久間防衛大臣辞任の際のBBCの報道には、次のようなフレーズがあった。"Mr Abe's 10-month premiership has been hit by a series of scandals."「BBC NEWS | Asia-Pacific | Japan minister quits over gaffe

*3:http://www.miyadai.com/index.php?itemid=525

*4:http://www.asahi.com/politics/update/0715/TKY200707150387.html

*5:竹下派死闘の七十日 (文春文庫)

*6:日本政治の決算 (講談社現代新書)