東浩紀・北田暁大は「学問オタク」か? (その1)

  • 前口上

◇さて、先に「私たちの時代の「学芸」 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」で、東・北田の両氏には「そこはかとなく『よくできすぎ』のいかがわしさを感じる」と書いておきながら、昨日の「「日本版ポリティカルコンパス」結果=保守左派 - ピョートル4世の<孫の手>雑評」では東浩紀の議論を急に引っぱってきた私だが、実はこの表題の件で1週間ほど悩んでいた。このブログでは、何らかの(あくまで私の勝手な動機に基づくが)積極的意味のある情報以外は流すまい(プロフィール欄に掲げた、あえて「世の中を憂えず」の意図)というくらいの自制はしていたのだが、一時はそれを断念しなければならないかと思ったほどだ。よって、このいいかげんなブログにしては珍しく、時間をかけて資料を調べ慎重に原稿を作成したほどである。
◇しかしこれ、東浩紀北田暁大をそもそも知らない人には、何の面白みもない記事になりかねない。一般化して言うと、昨日「時事短信」に書いたように、これだけ社会的な争点が細分化され、個人の関心も断片化して、他者との共感を欠いてしまいやすい社会(本当にそれだけなのかどうかも争点かもしれないが)において、(特に大学を拠点とするような)「学問」というものがどれだけの社会的な役割を果たせるのか、という話で、前の「私たちの時代の『学芸』」をもう少しだけ詳しく書いたものだと理解してもらえるといいだろう(←こうすれば、内田樹先生の方の大学論*1にも絡めるかもしれない、という下心あり?)。あと、現代思想の先端を行くような議論を、私のような凡人が無理に理解しようとすると、どのような悲喜劇が起こるかという奇妙な受容史の報告と思って見ていただいてもよい。
◇で、ご両人については、キーワードなど辿っていただければ情報は得られるが、私なりに紹介すると、東浩紀(あずま・ひろき)は、1971年生まれの批評家であり、現代思想の領域で高く評価されつつ、2001年の『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会*2などで、アニメ、ゲーム、ライトノベルなどの「オタク系文化」を批評の俎上に載せて、世間との通路を拡大した人物である。私は直接見たこともない。北田暁大(きただ・あきひろ)の方は、私は論文一本とそれをもとにした本一冊しか読んでいない(いいかげんだな)ので、ますますよく知らない。だから、的外れなことも書くかもしれない。で、その本は2月に出た『嗤う日本の「ナショナリズム」*3というもので、1960年代の連合赤軍の「総括」(という集団リンチ殺人)から2ちゃんねるまでを扱った、学者による著書ということで、それなりに話題になったわけである(これが後で問題にする曲者なのだが)。そういえば、北田氏は、東氏と同じく1971年生まれで、理論社会学・メディア史の学者だそうだ。
◇で、私は例によって適当なので、この「功成り名遂げた」ご両人を、その著書も大して読み込んでないくせに論じてしまうという乱暴なことをやってのけるのである。いくら瑣末な一ブログとはいえ、これは結構勇気がいる(何しろご両人ともはてなユーザーであられる。はてなアンテナ - ピョートル4世<孫の手>アンテナの「社会理論・批評」参照)。他人に面と向かっていきなり、いかにも不躾、不遜、無礼なことを言う、というのとほとんど同じ事になりそうなので、さすがに緊張する。なのに、蛮勇(だけ)ふるって書いてしまう私は何なのか。彼らのように論理的な「学問」ができないのだけは間違いなく実証されているが、そんな私でもただの中傷以外の何ものかを書けるかと期待して書いてみる。まあ、一方で、そんなことはごちゃごちゃ言わなくても分かってるよ、という明快な方もいるかもしれないが、鈍才な私は自分のペースで行くしかない。
◇ただ、表題に出した「学問オタク」は、これを書こうと思って資料にと買った、月間論壇?誌『論座』(最近ほとんど読んでいなかった)7月号で、ちょうど浅羽通明氏(この人の本も読んでないな)が書いていたところに従っている。氏は、特集「リベラルの責任」中の「”理論武装”のためのブックガイド・国内篇」で、当の特集の中で目次に名前が並んでいる人を含む、立岩真也大澤真幸東浩紀稲葉振一郎北田暁大らを一括りにして、「大学院志望の知的モラトリアム学生が読みふける」論者たちであり、1:「彼らのリベラリズムを受容する土壌が現在この国のどこに認められるのか」、2:「彼らがリベラリズムを標榜せざるをえない必然はどこから来るのか」という、2つの疑問を投げかけている(ちなみに、宮台真司先生だけ完全別格で、「その痛切な真面目さゆえに」*4「日本リベラリズムの困難を自覚する不幸を負っている」という高い評価を与えている)。
◇さて、あまりに前置きが長々しいが、今回この時期に東浩紀北田暁大を論じることになった、実に奇妙なきっかけを記しておく。東氏が、ブログ上で「饒舌」に報告されているのだが(「hirokiazuma.comid:hazuma)、めでたくも東家にご息女が誕生されたそうである。今でこそ素直な祝意を述べることができるが、私が最初(1週間前)にこの記事を見たときに、なぜか「?」という違和感を持ったのである。最初、私は自分でその違和感が何であるのか、自分でも理解できなかった。
◇それまでの私の「東氏の読者」経歴を記す。私は、かなり遅く90年代後半にようやく宮台氏の仕事に触れるようになり、一方、世代的に近い東氏の仕事も、『動ポモ』を少し遅れて読み、気になって2,3回読み直すが今ひとつしっくりこず、『郵便的不安たち#』は発売日に買ってそれなりに読み、さらに当時公式ページ*5にあった公開原稿からいくつかの論考を読んだ。一方、笠井潔との往復書簡形式の(そしてそれが破綻を呼んだ)『動物化する世界の中で*6は、ネット上の「哲学往復書簡2002」の時から読んだが、東氏が何にそんなに憤っているかもよく理解できなかったという、お粗末な読者だった(他に単行本も買ったが読んでない)。それで、氏が「はてな」上などで新しい活動を始めた辺りで、疎遠になってそのままという、我ながらろくでもない読者でしかなかった(なので、最も重要なはずの『中央公論』に連載された「情報自由論」も読んでいない)。しかし、単に年の近い中で凄い人がいるなというのでなく、きちんと読み取れてもいないのに引っかかる何かはずっとあったのである。
◇ところが、こんな不真面目な読者なのに、氏がブログ上で表明された慶事と、それに対する「おめでとうございます」コメントと返礼という世間的な振る舞いに、何か引っかかってしまったのである。宮台真司先生のご結婚を『週刊新潮』誌上で知った時の素直な祝福の気持ちとは違う、「これ」は何なのだ、と考えた。もちろん、いくらなんでも私は人の家の慶事にケチつけるほどには無作法ではないつもりなので、自分自身の「この違和感は何だ」という、かなりマイナーな問題でしばらく悩むことになった。
◇まず、非常に浅い、浅ーいレベルでは、その記事が、東氏の深刻モードとは裏腹な書き方で、娘の命名の由来を「オタク向けコンテクスト」で語り、照れ隠し?なのか何なのか「いい加減なもんです。(名前を)夫婦で風呂に入りながら30分ほどで決めました」、また、もちろん無事な誕生へのほっとした気持ちを表現したに過ぎないだろう「とはいえ、名前なんて本当はどうでもいいのです」といった、軽口な、善人らしさの伝わってくる報告や、「僕はついこのあいだまで、『子どもができたとかブログで報告しているのは最低なんじゃないか』派だったのだけど、単純に転向しました(笑)。新しい生命の誕生というのは、留保なくめでたいものです。そして、僕はそんな自分を快調に受け入れるやつになりはてています」という祝福への返礼を、私が勝手に誤読して腹を立てたのかと考えた。
◇というのも、私はたまたま最近、生命が生命としてあることが留保なくめでたいという(生命至上主義のような)考え方に疑問を投げかけ、それに関連して「命名の重さ」を考える文章(「人名漢字間違い続報と「命名」の重さ - ピョートル4世の<孫の手>雑評」)を書いていたから。しかし、これだけでは人が慶事の最中に何気なく発した言葉にいちゃもんをつけて絡む、とっても嫌な奴でしかないではないか。そりゃ、あんまりひどい。と、思ったのである。
◇それで、しょうがないので、このいいかげんな私には珍しく、非常に集中的に東氏の文章のいくつか(主に、これまた買ったままだった大澤氏との対談『自由を考える[9・11以後の現代思想]*7)を読み、その理解の補助線を引くべく北田氏の本を読むということをしたのである(これだけ集中的に読んだのは珍しい)。その結果、この数年来放っておいた東氏の議論への違和感は、要するに、私が真面目に読んでいなかった、読解力が足りなかった、ないし、情報量が少なかった結果であり、東氏の現状認識はことによると、宮台先生のそれよりも私の実感に近いのではないかという理解が(ようやく今頃)得られるという、思いがけない成果があった(これが東氏の「誤配」の一例?)。東氏の年来の活動は、(浅羽氏の論評と異なり)ある一点の真摯で、非常に痛切な現状の問題認識に貫かれており、その立場に共感するゆえに、(私がすっかり疎くなった「オタク系文化」を扱う場合でも)東氏に基本的な信頼を寄せることができると考えた。しかし、一方それゆえに現状の困難さを改めて思い知らされ、少し憂鬱にもなった。一方で、北田氏の議論については、メディア史を扱った本格的著作は見てもいないので、はなはだ不公平であるが、少なくともある程度話題になった『嗤う日本の「ナショナリズム」』で(好意的に見て)彼が「選んだ」戦略は、とてつもない趣味の悪さを露呈しているのではないかという(すでにAmazonレヴューでも他の著書を含め種々叩かれてはいるが)新しい疑念を持つようになった*8
◇以上、大変だらだらと書いてしまったのだが、次回・次々回くらいに分けて、東氏の議論と北田氏の議論を簡単に追っていきたい(一応アウトラインは定まってますが、相変わらず遅いので次は1週間以上かかるでしょう)*9

*1:一昨日の「Archives - 内田樹の研究室」、昨日の「Archives - 内田樹の研究室」。本当に大変そうだ。

*2:動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

*3:嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

*4:宮台先生の「痛切な真面目さ」の一端が垣間見える、こういう記述がちょうどあった。「人生の教科書 - 双風亭日乗はてな出張所

*5:http://www.hirokiazuma.com/

*6:動物化する世界の中で ―全共闘以後の日本、ポストモダン以降の批評 (集英社新書)

*7:自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

*8:なお、こういった思想界?のマイナーな議論を理解する副読本として、ちょうど(『ダンスマガジン』別冊扱いの)季刊歴史・文学・思想誌『大航海』№55「特集 現代日本思想地図」が6月5日に発売になった。その中では、平田知久氏が「東浩紀」項(私のような「情報自由論」も読んでない人間には格好の案内)を書き、一方、北田氏は「大澤真幸」項を小奇麗にまとめている。また、北田氏は『論座』7月号の特集では「”理論武装”のためのブックガイド・海外篇」を、古典から現代まで実にコンパクトに、手際よくまとめている。こういう仕事は非常に上手なのだろう。◆そういえば、浅羽氏のブックガイドは、全く対照的でねっとりした、濃やかな書き方。現代思想勢と日本思想史勢のこの折り合いの悪さは、どうもいつも変わらないようだ。また、これも以前書いたように(「「日本思想史」という大問題 (靖国論議の混迷に寄せて) - ピョートル4世の<孫の手>雑評」)、浅羽氏の文章では、江戸期の思想家は丸山真男『日本政治思想史研究』に従って、荻生徂徠本居宣長だけが定番で出てくる。いいかげんやめませんか、この固着した枠組み。せめて、吉田兼好が出てくる辺りが、三教一致的なもう一つの近世思想の水脈に近いけれども。◆ちなみに、また『大航海』に戻ると、三浦雅士氏による岸田秀への面白そうなインタヴュー「靖国問題精神分析」もある。

*9:で結局、前に予告した書評ネタやクラシックネタは、残念ながら遥かに先送りとなったわけである。